【日記】5/8-5/12

小林秀雄

 佐々木敦の『新しい小説のために』に出てきたからだったと思うが、柄谷行人という批評家を読むにあたって、批評というものをここまで熱心に他の作家のものを読んだこともないから、小林秀雄の『近代絵画』を読み進めている。悪い癖だが、芋づる式に読んでいくと、本当にきりがない。
 もともと、『新しい小説のために』も、山本浩貴の『新たな距離』や、それに関連してミシェル・レリスの『成熟の年齢』に関連して読み始めたのだった。それらも……と、やはり永遠に続く。
 小林秀雄、柄谷行人を読むためだけではなく、江藤淳を理解するためでもあった。とにかく、文芸批評というものが、全体として、どういう動きをして、どんな目的があって、あるいはそれぞれの批評家の生存戦略がどのように取られていて、相互にどういう関係があったのか、などということを、おぼろげながら理解したいと思ってのことだった。
 小林秀雄は、とりあえず、自分のスタンスというか、語る理由というか、なぜ人々が小林秀雄のいう言葉を聞かなければいけないのか、それに対する重みづけが巧妙である、というのはわかった。
 彼は、もしかしたら演技でもあるかもしれない、飄々とした口調で、それまで重い意味付けをされていた、芸術家や作品について、軽んじるようなことを初めにいう。読んでいるこちらは、一瞬、価値観がブレるような動揺を感じる。その後で、説得力のあることをいって、完全に軽んじるのではなくて、あとからその価値づけを普通の見方とは違う方向からすこし肯定して見せるとか、別の人を引き合いに出すとかいった形で、少し回復する。その処理が終わると、次の話題、次の作家に移る、そんな風に進む。
 これによって、今まで権威的であったものを、踏みつけにするわけでもないが、否定したり肯定したりする少なくとも権利が、この人にはあるのだという空気を作り出す。これは、良し悪しは言わないけれども、確かに技巧をこらした技術であると感じる。
 その奥に、何か言いたいことはあるのだろうか。それとも、自分の価値をその書物で出来うる限り高めようとしているのだろうか。別にどちらでもないのではないかとも思える。では、何の為に書いているのか。そのあたりを、続きを読んで判断していきたいと思う。

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