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50歳なんて何でもない、のか? いったいいくつになったらおとなになれるのだろう? アンドリュー・ショーン・グリア 『レス』(上岡伸雄 訳)

アーサー・レスは歳を取った最初の同性愛者である。少なくとも、自分ではときどきそのように感じる。この浴槽で、裸でお湯に浸かっているのは、二十五歳か三十歳の美しい若者であるべきだ。人生の喜びを享受している男。いまの裸体を見られるのは何とも恐ろしい。お腹のあたりまでピンク色で、頭が灰色。鉛筆用とインク用が合体した消しゴムのようだ。

鉛筆用とインク用が合体した消しゴム……あったな~絶妙のたとえですね。

さて、この『レス』を読んで、人間はいったいいくつになったらおとなになるのか? と、あらためて考えてしまった。

成人式は20歳である。いや、これからは18歳になるのか? たしかいまは、18歳から投票できるのだっけ。酒とタバコは20歳のまま?

そういった社会制度を除けば、一昔前は ” DON'T TRUST OVER THIRTY”という言葉があったように、30歳でようやく真の「おとな」になるという概念があった。きちんとした会社に就職し、結婚して家庭を築き、子どもを持つ「おとな」に。

しかし、ここ最近は30歳までに結婚しないといけないという圧力は男女ともに少なくなり、アラフォーという言葉がブームになってからは、40歳が大人になる節目となったように思える。とくに結婚や出産を望むまっとうな男女にとっては、いまでも40歳はひとつの壁だろう。
しかし、まっとうでない者たちにとっては、40歳すらも単なる通過点に過ぎないのかもしれない。

となると、50歳が目前になってようやく、ついに自分が「おとな」になってしまったという事実にはっと気づくのだろうか? 
おとなになったと気づくと同時に、老いを感じるのだろうか?
まっとうな「おとな」を経由しないまま、「老人」の域に足を踏み入れつつあることに愕然とするのかもしれない。

この小説の主人公であるレスも、50歳になるという現実を前にして、まさに愕然としている。
50歳の誕生日を前にして、15歳年下の恋人フレディがほかの男と結婚すると言って去ってしまった。多少は知られた小説家であるレスだが、最新作は出版社からやんわり断られ、既刊の作品についても、ゲイを惨めに描いている「駄目なゲイ」だとゲイ仲間から評される。

五十年近く生きてきて、最後に残ったのは恋の記憶だけ。しかもどれも苦い結末を迎えている。なんとしても、50の誕生日を恋人に去られた家でひとりぼっちで過ごしたくない。そこでレスは、海外からの仕事のオファーをすべて引き受け、世界一周の旅へ出る……

冒頭の引用でレスは「歳を取った最初の同性愛者」と感じているが、もちろんそんなことはない。世界にはあのひとも、日本ではこのひともいる。
そういった句法を採用すれば、氷河期世代の私だって、日本がどん底の不景気になってから社会に出て、年老いていこうとしている最初の世代、とも言える。

結局、男であろうと女であろうと、異性愛者であろうと同性愛者であろうと、どういう属性であっても、誰にとっても、年老いていくのははじめての経験なのだ。

いつまでたってもおとなになれずに歳ばかり重ね、恋人に去られてはじめて、自分は若くもないうえに、年齢にふさわしいものを何ひとつ手にしていないことに気づく……というと、ニック・ホーンビィの『ハイ・フィデリティ』を思い出す。ジョン・キューザックが主人公を演じた映画版も絶妙のおもしろさだった。

1995年に出版された『ハイ・フィデリティ』の主人公は、30代半ばになって、おとなにならないといけないという事実に直面するが、それから約二十年後の『レス』では、主人公は50歳を前にして現実に向き合うというのが、時代の流れ、もしくは時代の停滞を反映しているようで興味深い。

おとなになるためには、「通過儀礼」が必要なのかもしれない。

大多数のひとは、就職、結婚、子育てなどで、その「通過儀礼」をパスするのだろうけれど、まっとうなおとなになれない人種はそんな「通過儀礼」とは縁がない。いや、鶏と卵の関係のように、縁がないからまっとうなおとなになれないのかもしれないが、どちらにせよ、そういった方法でおとなの階段をのぼったりはしない。

ならばどうするかというと、「巡礼」の旅に出る。

『ハイ・フィデリティ』の主人公は昔の恋人を訪ね歩いたが、このレスは昔の恋人を思い出しながら世界一周するのだから、やはり二十年という時を経てバージョンアップしたのかもしれない。

レスの昔の恋人のなかで、フレディと並んで、あるいはフレディ以上の存在感を放っているのがロバートだ。

レスは21歳のときに、当時既婚者であった25歳年上のロバートと出会う。ロバートの存在が大きいのは単に年上だからというわけではなく、誰もが認める「天才詩人」であり、レスは、「ピュリッツアー賞をとった天才詩人の恋人(であった二流作家)」と、世間から認識されているのだ。「〇〇の妻」状態なのである。あるいは「じゃないほう芸人」か。

ロバートの作品をめぐるシンポジウムの開催にあたり、レスは証人としてメキシコに呼ばれてインタビューを受ける。

「天才と暮らすのって、どんな感じでした? 君は若かりし日にブラウンバーンと会ったんですよね」
「若かりし日」なんて言葉は自分自身に関してしか使わないものだ。それがルールじゃないか?

天才と暮らすのはどういうことか? 回想では、ロバートの詩作をなにより優先する生活を送っていたことが示唆されるが、それよりも重要なことは、ロバートはすべてを一瞬にして見抜くのだ。レスの心の動きもふたりの未来もロバートは瞬時に察した。

先にレスの巡礼の旅と書いたが、小説はすべて巡礼の旅を描いたものだとも言える。
その原型となっているもののひとつは、ホメロスの『オデュッセイア』だ。この小説も『オデュッセイア』を意識的に取りこんでいる。さらに、レスが小説家としての地位を確立することになった作品も、『オデュッセイア』のカリュプソ伝説を語り直した『カリプソ』である。

物語の終盤、年老いたロバートが予言者テイレシアス(『オデュッセイア』に登場するテーバイの予言者)として姿をあらわす。物語の冒頭で、レスは「歳を取った最初の同性愛者」のように感じているが、ロバートはまぎれもない先行者なのである。すべてを見抜くロバートの前では、何も隠せない。

50歳からの人生に怯えるレスに、ロバートは「50歳なんて何でもない」と語る。そう、時間をさかのぼることはできない。でも、それがいったいなんだというのか? 「クソみたいな人生にようこそ」と言い放てばいいだけだ。

こうしてレスの巡礼の旅が終わりを迎える。最後の旅の舞台は京都である。
関空から大阪を通って京都に入り、「月が渡る橋」まで行く。
(渡月橋をモチーフにしているのかもしれないが、実際の渡月橋よりかなり田舎のように思える)

京都の高級料亭の場面については、なんせ行ったことがないので、モロッコやインドと同じくらい未知の世界のように感じられた。ちなみに、訳者あとがきによると、作者アンドリュー・ショーン・グリアは任天堂で働いていたことがあるらしい。なるほど。

そうして、関空からサンフランシスコに戻ったレスを待ち受けていたものは?

これを読めば、歳を取るのが怖くなくなる、とまでは言えないが、そう悲惨なことばかりではないのかもしれない……という気持ちになる。

自分が50の誕生日を迎えようとするとき、いったいどうなっているのだろうか? そばにいてくれるひとがいるのだろうか? 
いや、ひとりぼっちであっても「50歳なんて何でもない」のだろう。
そう思える小説だった。

君が五十のとき、僕は七十五歳になる。そうなったら、我々はどうする?
笑うことしかできない。それはすべてに言えることだ


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