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父親について語るときに僕の語ること レイモンド・カーヴァー「父の肖像」(『ファイアズ(炎)』所収)から村上春樹『猫を棄てる』へ

自分の肉親について説得力のある文章を書くというのは決して簡単なことではない。結局のところ、文章の力によってどこまでその人物を相対化できるか、そしてその相対化された像のなかにどれだけどこまで自分の感情を編み込めるか、という微妙な勝負になる

村上春樹はレイモンド・カーヴァー『ファイアズ(炎)』の訳者あとがきで、カーヴァーによるエッセイ「父の肖像」について、こう書いている。そののちに、自らの父親を題材にした、『猫を棄てる 父親について語るとき』というエッセイを発表した。

上記の引用に続けて、「見事なばかりの説得力を持っている」と村上春樹が賛辞を贈っているように、レイモンド・カーヴァー「父の肖像」は、父親がどういう人物であったのか、そして私はそんな父親をどう見つめていたのがよくわかるエッセイである。

あるクリスマスに私は父に会って、「小説家になろうと思うんだ」ということができた。「整形外科医になろうと思う」と言ったって同じことだっただろう。「何について書くつもりなんだい?」と彼は訊ねた。それから助け舟を出すかのように、「お前のよく知っていることを書くといいよ。一緒に行った魚釣り旅行のこととかな」と言った。そうするよと私は言ったが、そうするつもりなんてなかった。

カーヴァーの父親は読書家ではなく、文学や芸術に関心のない人物だったようだ。ワシントン州で農夫として働いたあと、ダムの建設労働者となり、それからオレゴン州に移って製材所で働き、そこでカーヴァーが生まれた。

働く先々に家族のみならず親戚一同や友人までも呼び寄せて、仕事の面倒をみたが、他人のためにお金を使ってばかりで、自分の家はいつまでたっても貧しいままだった。アルコールの問題を抱えていて、女性関係もだらしがなかったようだ。

ところが、そんな父親が突然倒れる。神経衰弱に罹って働けなくなった。
1956年の話なので神経衰弱と診断されたが、現在ならば鬱や更年期、あるいはアルコールに起因するものなど、もっと適切な診断がくだされ、もっと適切な治療を受けることができただろう。結局、父親は何年も精神病院に閉じこめられ、電気ショック療法を受けさせられた。

それでもなんとか、父親は社会復帰を果たした。
おおかたのものを失った父だったが、友人に紹介された仕事をなんとかこなせるようになった。しかしちょうどその頃、カーヴァー自身も家族を持ち、自分の生活を支えることで精一杯だった。小説家になりたいという思いを伝えたのもこの頃だったが、父親がどうしているかまで気を向ける余裕はなかった。

それから父は死んだ。私は彼にいろんなことを言えないまま、遠くはなれたアイオワ・シティーにいた。別れの言葉も言いたかったし、父が新しい職場でよくがんばっていたことを賞めてやりたかった。そして社会に復帰できたことを誇りにしていると伝えたかった。

カーヴァーは母親からもらった若い頃の父親の写真を壁にかけ、折にふれてはそれを眺めていたが、くり返す引っ越しのなかで、ついに失くしてしまう。
そこで写真を頭に思い浮かべ、「二十二歳の父の写真」という詩を書いてき、父親が持つ脆さ――自分にも引き継がれたもの――を見つめようとする。

父さん、僕はあなたのこと好きだよ
でも感謝するわけにはいかないな。僕もやはり酒にふりまわされているようだ

数ページの短いものだが、父親の半生を淡々と綴っているだけのようでありながら、息子としての愛情が読者の心にもしっかりと伝わってきて、しみじみとした余韻が残るエッセイである。

一方、村上春樹の『猫を棄てる』を読むと、この不穏なタイトルが示唆するように、どこかおさまりのよくない心持ちになる

文学などとは無縁であっただろうカーヴァーの父親と異なり、村上春樹の父親は仏教系の専門学校時代から俳句を愛好し、兵役を経て京都大学に進学したあとも、「京大ホトトギス会」の同人として熱心に活動した。学問を深く愛し、もともとは大学院に残って学者になりたかったようだが、家族の生活を支えるために名門私立学校の国語教師となった。

うちの母親は「あなたのお父さんは頭の良い人やから」と僕によく言っていた。父の頭が実際にどれくらい良かったか、僕にはわからない。そのときもわからなかったし、今でもわからない。というか、そういうものごとにとくに関心もない。

作者が書いているように、父親は自分の果たせなかった夢――好きなだけ勉学に励み、自分と同じ京都大学に進学して、ゆくゆくは学問で身を立てる、というような――を息子に託していたようだ。
だが、その息子は「身を入れて勉強をしようという気持ちにどうしてもなれなかった」ので、父親を失望させる結果となり、親子の溝は広がっていく。よくある話と言えばそうかもしれない。

のちに息子が小説家としてデビューしたときは、文学を愛した父親はたいへん喜んだらしいが、溝が修復されることはなく、「関係はより屈折したものになり、最後には絶縁に近い状態となった」。

しかし、絶縁に至った経緯については「僕と父とでは育った時代も環境も違うし、考え方も違うし、世界に対する見方も違う。当たり前のことだ」と書いているだけで、具体的には何も語っていない。

そうして、父親が亡くなる少し前にようやく「ぎこちない会話を交わし、和解のようなこと」をおこなう。
だが、「和解のようなこと」と書いているように、ほんとうに和解したようには感じられない。作者はまだ父親の問題、父親が抱えていたものを受けとめられないのではないかという印象が残る。それゆえに父親の軍隊での経歴を調べ、詳細に掘り下げているのだろう。あとがきにはこう記されている。

僕がこの文章で書きたかったことのひとつは、戦争というものが一人の人間――ごく当たり前の名もなき市民だ――の生き方や精神をどれほど大きく深く変えてしまえるかということだ。

しかし正直なところ、このエッセイを読んでも、戦争体験が父親にどういう影響をもたらしたのかはよくわからない。父親と作者のあいだで交わされた会話などの具体的なエピソードにも乏しく、父親の人物像も、学問好きで対外的には立派な人物であったことくらいしか掴めない。

父親の人格のどこかに戦争によって形成されたもの、戦争が影をおとしているところを、作者は見出していると思われるのだが(それが絶縁につながった「考え方」や「世界に対する見方」の違いなのだろう)、それが書かれていないので、どことなく釈然としない読後感が残る。
父親が戦地から戻された理由も、再度戦地に赴くまでのあいだ何をしていたのかも謎のまま残り(いまとなっては、ほんとうに謎なのだろうが)、なんとなく腑に落ちない気持ちになる。

人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通りぬけない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。

いくつもの面において父親と自分は違うとしながらも、猫を棄てにいった思い出、毎週日曜日に一緒に行った映画館、足繁く通った甲子園球場のように、父親と共有したものも数多くあると作者は書いている。

上記の引用は『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』からであるが、父親に心の傷を与えたと思われる軍隊での出来事を調べるのは、父親から引き継いだもの、父親と自分を深く結びつけているものを探り当てようとする試みだったのだろう。父親の写真を見つめて、父親と自分に流れるものを理解しようとしているカーヴァーと同じように。

とはいえ、この本において、その試みがどこまで成功しているのかどうかはよくわからない。少なくとも読み手にとっては、先にも書いたように、肝心なところがすっぽり抜けているようで物足りない感じも残る。
結局、もし父親が(あるいは母親が)戦争で死んでしまっていたならば、自分は存在しなかった、という至極当たり前の結論で踏みとどまってしまったような印象も受ける。

だからといって、この本を読んでがっかりしたという意味ではない。
父親との回想記を「いろいろあったけれど、父親が亡くなる前に和解できた、めでたしめでたし」というような〈いい話〉にするのではなく、こんなふうにおさまりの悪い、作者のほかの文章とも組み合わせることのできないエッセイとして発表するところが、誠実な姿勢だと思った。

とくに最後の子猫のエピソードは印象に残る。木の上でひからびた子猫――「結果は起因をあっさりと呑み込み、無力化していく。それはある場合には猫を殺し、ある場合には人をも殺す」。

生きることというのは、基本的にひたすら上っていくことなのだろう。けれどもいつかは降りなければならない。下の世界へ身を投じることの難しさが、生きることの難しさに通じるのかもしれない。

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