こんな時代ならではの手話の重要性
幼稚園に通う子供が
「『ありがとう』ってこうやるんだよ!」
と手話をやってみせた。
ここ最近、朝夕の挨拶など時折、手話をやってみせてくれる。
生憎、手話が出来ない私にとってはただただ驚きながらも、日々少しずつ繰り返し見せてくれる手の動きから、朧げながらも手話を覚えつつもある。
家人がもともと知っていた手話をいくつか教えているということは把握していたが、それだけではなく手話という言語が、どうやら身近な言語の1つとして子供に認識されているようだ。
同年代の頃の私といったら手話とは、全く遠い存在だっただけに、今の時代はよりバリアフリーの世の中になってきたのだな、そしてそれに向けた教育が幼児期からなされているのだな、と感心しながら嬉しくもあった。
それにしてもよく覚えているので
「どうしてそんなに手話を知っているの?」
と訊くと、
「幼稚園でみんながお話ししたら(感染予防の観点から)よくないでしょ。だから手話で例えば『ありがとう』とかを伝えるんだよ!」
私の既成概念、凝り固まった思考は音を立てて崩れた…。
あまりにも固くなった思考しか出来得ていない私の脳に自ら辟易した。
手話は耳の不自由な方とのコミュニケーション言語だとばかり、それ以上でも以下でもないとばかりの考え方だったと痛感した。
声を用いて会話することが積極的に奨励されない時代において、どんどん言葉を覚えていき、覚えたての幼児が話して伝えていきたいという行動自体に抑制をかけることは大変心苦しい。
とはいえ、リスクを考えるとお話することは控えさせたい。
そんなジレンマのなかで、手話でコミュニケーションを図る。
スポンジの如く、音声言語はもとよりあらゆる物事を覚えていく子供達だから、いまのタイミングで手話を覚えていれば将来、手話を必要とする方々ともコミュニケーションをとることが出来るようになる。
なんたる素晴らしいことだろうか!
制限を強いられる生活様式のなか、従来では得られなかった新たなアビリティを取得することが出来る。
私の凝り固まった脳はほんの僅かにだが、ほぐされた気がした。
おしまい
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