不便さと自分
みなさんおはようございます!Purzambyのごうです!
今回は地方のエンタメ生存戦略というテーマで話していきます。
僕は専門家でもないし、お店をやってるわけでもないですが、いろんなところに行った中で感じたことを書いていくって感じですのでご了承くださいませ。
快適 < 不便さの設計
僕が感じることとして、やっぱりクオリティという面では世界レベルには到達できないし、都市のお店のように情報のアンテナが高くないし、なんならそういうお店があっても田舎だと浮いてしまうからマッチするとはいいにくい。
そんな中、僕が田舎のお店や温泉施設で楽しいと感じるのは、いい意味で不便であり、お客さん同士のコミュニケーションが生まれる設計がされてるなという点。
ちょっと何いってるかわからないかもしれないので、2つ例をあげます。
1つ目は、普通にしてたら熱すぎて入れないほどの温泉。
もしあなたがこういう状況になったらどうしますか?
熱すぎて入れない温泉があり、そこには2人くらい熱そうにして入れていないお客さんがいます。そこには冷たい水が出せる蛇口があります。蛇口の注意書きとして、「ここの温泉は熱すぎます。ちょうど良い温度に調節してください」と書いてある。
僕だったらそこにいる熱そうにしているお客さんとまず目を合わせます笑。その上でコミュニケーションを取れそうな人だったら、その熱すぎる温泉に対して文句をいいながら水を足して調整すると思います。
そんな温泉は「快適」を求めている人からすると「不便」ですが、便利すぎる社会だからこそ、僕はこういった「人間性が見える不便さ」を設計することがエンタメとして面白いなって思います。
2つ目の例は、人柄の良さそうな店主と、その人を支える人の合計二人で店を回してる定食屋もしくはラーメン屋です。
こういうお店はいかに「なんかいい」を提供できるかがカギになってる気がします。日本的暗黙の了解をいかに生み出せるか。お店の人とお客さんが自然発生的に協力体制になるというエンタメですね笑
厨房がバタバタっていうのを感じ取って自分で取りに行き、それをなんかいいなぁみたいな感じで他のお客さんにも伝わるお店の一体感。結局人は会場の一体感やライブ感のようなものにワクワクするものなのかなぁと思ったりしてます。これは僕だけかもしれませんが笑
2つの例は一部に過ぎませんが、いかにそこのお店に行ったという記憶の中に、温泉や料理以外の「自分自身」というものを接触させるかが大事(特に地方では!)かなと思ったりしてます。いつでもどこでも良質なコンテンツに触れることできる時代に、いかに不便だけど自分が存在するライブ感のあるエンタメこそがリアルに求められていそうです。
やっぱりストーリー性
僕は割といつも言ってるのですが、ストーリー性が本当に重要だなって思います。さっきの不便さの話と通ずる部分はありますが、いかに「お店」として記憶されるのではなく、「あのお店であんなことがあったよね」と記憶されることが大事かなと思います。
そこにはそのお店に行くまでの道のりでの出来事かもしれないし、お店で話した内容かもしれないし、帰り道の何気ない会話かもしれません。
いかにそこにたくさんのストーリー要素を入れることができるかが、観光や旅行には重要だと思います。
RPG(ロールプレイングゲームの略)を遊ぶとき、抽象的な試練としてではなく、具体的なキャラクター性や世界観、様々な要素があるからこそのRPGですよね。
旅行やイベントもそのようなRPGと一緒で、いかに世界観を作り込み、ストーリーとして見せていくかが単発的に消費されるものではないコンテンツにするカギだと思います。
なぜ日本のお城巡りや神社巡りが一部の人から熱狂されているかというと、そこには日本史というめちゃめちゃ大きなストーリー軸があるからだと思ってます。入り口は建築的なもの、武将がかっこいいとかなんでもありだとは思いますが、結局ストーリーに着地する気がしてます。
さいごに
つらつら書いていきましたが、伝わったかな?笑
これはごう的イメージなので、不便さなんてあり得ない!とかストーリー性とかどうでもいいと思う人もいると思います。
僕の意見としては、完璧を作るより、人間ならではの部分をみんなで補い合うエンタメがこれからもっと増えていったらいいなという気持ちです。
人同士の強い繋がりが減っている中でいかにそこを設計するかが大事かなと思ってます。
そんななかでイベントを作ったりお店を作ったりするときには、この話を頭の片隅に置いてもらえると嬉しいです。
現場からは以上です!さよなら!
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