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基本的に、内省してそれをメモとして書き留めるだけです。

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基本的に、内省してそれをメモとして書き留めるだけです。

最近の記事

気の利く都合の良い人間

ずっと察しのいい人間にならないといけないと思っていた。実際わたしはたぶん結構気が利く。仕事でもプライベートでも、相手から聞かれるかもしれない質問は事前に想定しておいて、なんとなくそれらを盛り込んだ状態で相手に伝える。言った言わないの話にならないように、口頭だったら忘れちゃうかもしれないからメールでも書いておこうとか。社会人マニュアルをそのままトレースしてる要領の悪い人のようで恥ずかしいけれど、やらないとやらないで気持ち悪くて、どうしてもやらざるを得なかった。 そんな自分は有能

    • 対話を試みる

      わたしはいつも何事においても、自分がそれをしたいかしたくないかのどちらかがわからなかったので、とりあえず「普通の人ならこうするのかもしれない」と思ったほうを選んできた。だから何をするにも思いきりは必要なくて、とんでもないことをしでかした後も感情に大きな動きはなく、空っぽな感覚だけが残った。いつもなにをしてもつまらなかったけど、人生はそういうものなのかもしれないと自分に言い聞かせて、自分の自分自身に対する無責任さを見て見ぬふりして過ごしてきた。 そんな調子だから、自分以外の誰か

      • 自由と覚悟

        エレンが求めてた自由ってなんだろうってずっと思ってた。 でも、いま思うのは、自由とはなにかを定義するのはあまり重要じゃなくて エレン自身がなにかを強く求め、その求めたものを「自由」と彼の中で名づけた。自由というのはただそれだけのことなんだと。 じゃあエレンって結局なにがしたかったの?なにがほしかったの?って それは「自由」としか言いようがないのです。 この世界で生きていくうえで、毎日人生に100%満足しながら生きていくことは難しいでしょう。いないとは言わないが。てかいるんだろ

        • 無駄に過ごした20代

          これまでも自由に思ったことを書いてきたけど、もっともっと自由にてきとうに自分だけわかるように書いてもいいやってことで、眠れないから好き勝手書いていく。 部屋の大掃除をしたら妙に視界が開けた。1Kの狭い部屋はたくさんものを置くことはできないし、ものを隠すこともできないし、ごちゃごちゃしているけれど、これまでインテリアなんだかあえてなんだかわからない感じで置いていたものが在るべき場所にまとまったって感じで、気持ちがいい。ベッドから見た光景には、木製の家具を中心に、色とりどりのカバ

        気の利く都合の良い人間

          死にたいわけじゃなかった

          わたしは子供の頃からなんとなく「死にて〜」と思いながら生きてきたのだけど、それは強い希死念慮というよりは、思うようにいかない現実から逃げる手段として最終的には「死」があることを実感することで、死にさえしなければ案外今の状況はマシだと自分に言い聞かせていただけのような気がしている。 しかし今でもたまに思う。もう今の事態がどうしようもならないなら、この先も決して満足も納得しない自分の人生に折り合いをつけることもなくなんとなくモヤモヤしながら暮らしていくなら、40歳で死んでも30歳

          死にたいわけじゃなかった

          人の好意をありがたく受け取れない

          世の中の人々は、人から好かれることに価値を置きすぎていると思う。 たしかに、だれかに自分の存在が心地いいと言われて、嫌な気持ちになるわけではない。ただしそれは別にわたしの存在価値の証明になるわけでもないし、承認されたともまた違う。その人にとってわたしはなにか都合がよかったのだ。そう考えてしまうわたしはあまりに卑屈だろうか。 恋人は自分から気持ちを告白してスタートした関係なのか、それとも相手から好きだと言われたのか。別れが訪れてしまった二人ならば、それは自分から関係を終わらせた

          人の好意をありがたく受け取れない

          殻を破りたい

          このブログは誰かのためになることを書くつもりはなく、ただわたしが思ったことを脈絡もなく書くことにしている。自分の思考整理用。とはいえ、わたしの文章って抽象的なものが多いし、具体例がないし、なんだかいつも同じことばかり話してない?とも思う。 その理由として、まず一つはまずそこまで変わり映えのない毎日を過ごしているから。わたしは人様を楽しませるトピックは持ち合わせていない。とはいえどんなに平凡な日常でも、人はみなその景色の見方が違う。だからどんな人生を送っているかはあまり関係ない

          殻を破りたい

          【感想】村上春樹「約束された場所で underground 2」

          第一弾である「アンダーグラウンド」の果てしない長さ(800ページ弱)を前に怯んでしまい、先に第二弾の「約束された場所で」を読んだ。 どちらもオウム真理教事件に関するノンフィクションで、前者は直接的あるいは間接的な被害者、後者はオウム真理教元信者にインタビューしたものだ。 本当だったら何も情報を入れずに被害者のインタビューから読もうと思っていたのだけど、加害者側(ただしインタビューを受けた元信者の中には直接的に事件に関わった者は一人もいない)がなぜオウムに魅せられてしまったのか

          【感想】村上春樹「約束された場所で underground 2」

          タイムリープ

          どうしたら楽になれるのかまだわかっていない。そもそもいつかわかるものなんだろうか。人生はつらいような、楽しいような、なんとなくこのまま生きていけるような気もしている。と同時にそんなどっちつかずでのらりくらりなまま生きていける気持ちの余裕が、いつか終わりを迎えるのではないかと想像してこわくもなる。わたしは楽になりたいのか、残酷さを生き抜く強さを身に付けたいのか。きっとどっちもだろう。強さを身に付けたらきっといまより楽になれると期待してる。いまは骨折しそうに苦しい感情もかすり傷程

          タイムリープ

          拗らせているとはどういう状態か考えてみた。

          拗らせってそもそもなんだろうなあと考えてみて、なんとなく自分のなかで「これかもしれない」と思えるアンサーが一つ浮かんだので、浮かんだ経緯とか自分の体験を交えて、ここに記録したいと思います。 結論から書きません。ときどき脱線しながら、一人語りするつもりで、今自分の中で思う結論にむかって書いてみる。 まず、わたしは間違いなく拗らせている。ネットで調べてみると、拗らせている人とは、捻くれている人、面倒な人、物事を難しく捉え人間関係をややこしくしてしまう人、とのこと。なるほど。たしか

          拗らせているとはどういう状態か考えてみた。

          あたらしい自分と出会いたい

          わたしには具体的な人生の目標はない。すごくお金持ちになりたいわけでもなく、見た目を究極まで磨きたいわけでもなく。今の生活も変えたらそれはそれで面白いとは思うけど、渇望するほどの情熱はない。まあなにごとも、熱い思いだけが自分を扇動してくれるってわけじゃないんだけどさ。 なんとなく消費的に生きている。なにかをインプットしていないとつらい。でも、それは何かの能力の向上というよりは、自分自身について考えることを避けるためだとか、なんとなく今の自分から進化したい、変わりたいという思いが

          あたらしい自分と出会いたい

          正しい選択肢なんて本当はなかったんだと思う

          思い返すと、いままでの人生のなかで「なんでそんな選択肢を選んだの?」と言われることがよくあった。わたしとしては、進学先も、就職先も、仲良くする人も、付き合った人も、付き合わなかった人も、自分がそうしたくて選んできた自覚だが、いざそう聞かれてしまうと言葉に詰まる。だってきっと目の前の人がわたしに言いたいのはつまり、言葉通りの「なぜこの選択肢を選んだのか教えて」ではなく「この選択肢を選ぶ気持ちがわからないので、私が納得できるそうに説明して」という意味のような気がするからだ。とまあ

          正しい選択肢なんて本当はなかったんだと思う

          誰かを求めることは即ち傷つくことだった

          宇多田ヒカルさんの「One Last Kiss」のなかに、「誰かを求めることは即ち傷つくことだった」という歌詞があって、わたしがこの部分が大好きだ。 その通りだと思うし、誰かと「健全に」関わっているのならば、相手からなんらかの意思がこちらに伝わる。それは必ずしもわたしの価値観に適合したものではなくて、それを流すも反論するもわたしの自由であるが、なにか自分とは異なる思想に触れたとき、それが相手から悪意をもって放たれたものではなくとも刺激として伝わる。時にはわたしの価値観を揺るが

          誰かを求めることは即ち傷つくことだった

          この美しき残酷な世界では

          わたしが生まれてもうすぐ30年になる。決して満足のいった人生ではないし、満足するためにできるだけの行動をしてきたとも言い難い人生だっただろう。じゃあ満足するためにわたしは生きているのだろうか。わからない。わたしの幸せは何かを欲求しそれを得ることによって得られる「満足」だけにあるのだろうか。そもそも、満足ってなに?満たされる気持ち?それを得るのに時間や労力をかければかけるほど自分の中でそれの価値が上がり、手にした時の喜びが大きいのは言うまでもないだろうけど、でもじゃあ、それがす

          この美しき残酷な世界では

          要求性能未達の社会的動物

          最近のわたしはいつも行動することを躊躇っていて、なにもできていない。側から見たら「難しいことじゃないのになぜ」「どうしてできないの」という反応を受けるようなことであろうことも、事態が深刻ではないことも、わたしが客観的事実以上に自分の頭の中で繰り広げられた個人的見解の歪みに苛まれていることも、たぶん、頭ではわかっている。わかっているのか、これを書いている今も、はいはいわかってるからこれ以上わたしが既に考えに至ったことを言わないで、と周囲に主張して自分を守るためだけにやっているこ

          要求性能未達の社会的動物

          ごはんのあたたかさ

          お米という意味ではない、食事全般を表す「ごはん」という言葉の無防備さが苦手だ。 丸裸で無垢な「ごはん」という存在を裏切ってはいけない、という気持ちが働く。 この言葉に限らず、食べたかったものが食べられない人を見ることも、勝手に切なくなってしまうから苦手だ。 何かを食べたいと言っている人に、それはないよ、と伝える時、強い言葉でNOを突きつける人が苦手だ。 なぜか自分が言われる分には大丈夫で、側からそれを言われている人を見るのが苦手だ。 この感覚に初めて気づいたのは7歳の時。

          ごはんのあたたかさ