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誰かを求めることは即ち傷つくことだった

宇多田ヒカルさんの「One Last Kiss」のなかに、「誰かを求めることは即ち傷つくことだった」という歌詞があって、わたしがこの部分が大好きだ。
その通りだと思うし、誰かと「健全に」関わっているのならば、相手からなんらかの意思がこちらに伝わる。それは必ずしもわたしの価値観に適合したものではなくて、それを流すも反論するもわたしの自由であるが、なにか自分とは異なる思想に触れたとき、それが相手から悪意をもって放たれたものではなくとも刺激として伝わる。時にはわたしの価値観を揺るがしたりして、いままで自分が信じていたものをそうじゃないと暗に示す言葉もあるかもしれない。
じゃあそのたびに「やっぱり人は分かり合えない」と諦めるのか。
わたしはそれも個人の自由だと思う。必ずしも人と協調して空気を読んで生きることだけがすべてじゃない。
でも、やっぱり一人は寂しいと感じるのならば、誰かと関わりたいと願うならば、傷つくことを覚悟して人との交流の場に足を運び、そこが決してただの理想郷ではないという事実を受け止め、認めなくてはならない時がくる。
これはなにも、相手から明らかな悪意をもって接されたり、意地悪をされても「こういうものだ、しかたない」と我慢しろという話ではない。
悪意があろうとなかろうと、人と関わることによって一切の傷もつかずただ受け入れられ癒される関係なんてものはないという話だ。中にはないこともないが、それは相手に我慢を強いないと決して成立しない状態だと思っている。
互いに、好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、これはされたくない、こういうことをされたら傷つく、という伝え合うことのできない関係は対等ではなく、健全でもないというのがわたしの考え。
「不健全」な関係を持つことをよしとないのは、倫理的にどうだとか、人として周りを思いやるべきだとか、人としてどうあるべきかを説くような意味合いではなく、それがまわりまわって自分のためになると思っているからだ。
人に我慢を強いたところで人には限界がくるので、どこまでも自分にとって都合のいい関係を続けてくれる人はそうそういないだろう。いや、いたらそれは支配する側が離さないことでしょう。わたしは臆病なので、いずれ壊れるかもしれないと想像しながら人を付き合い続けるのは難しい。
ただしこれも語弊がないように言っておくが、どんなに自分で健全だと思って続けていた人間関係にも、ある日突然別れが来るものである。
何事も完全にコントロールすることは難しい。というかできない。しようとしてはいけない。
誰もが同じく自由意志を持ち、それに従って生きていていい人間だと認める先にあるものしか見たくない。でもこんな理想を語ったところで、なんでこう振舞ってくれないのだろうとだれかに苛立つことがある。どうしてわかってくれないのだろうと。言葉にしたら幼稚だけど、これらの感情を完全に排除したわたしにもしなってしまったのなら、それはそれで味気なくて人間みが足りない気もする。でもそれを他人への「攻撃」の免罪符にすることはしたくないなあと思う。


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