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要求性能未達の社会的動物

最近のわたしはいつも行動することを躊躇っていて、なにもできていない。側から見たら「難しいことじゃないのになぜ」「どうしてできないの」という反応を受けるようなことであろうことも、事態が深刻ではないことも、わたしが客観的事実以上に自分の頭の中で繰り広げられた個人的見解の歪みに苛まれていることも、たぶん、頭ではわかっている。わかっているのか、これを書いている今も、はいはいわかってるからこれ以上わたしが既に考えに至ったことを言わないで、と周囲に主張して自分を守るためだけにやっていることなのかは、はっきりと区別をつけて説明することはわたしにはできないが、でもそこはスルーしてほしい。とにかくなにもできない。なにか一つ行動を起こした先の未来を想像すると、大抵の場合は今以上に事態が悪化していて、かといってそれを止める方法も頭に浮かばないとなると、未来のためにはわたしは「なにも行動しない」という選択をとることがきっとわたしにも、相手にもいちばんいいんじゃないかと考える。本当にこれでいいのかな、という不安感はずっとあるけれど、でも行動した先に明るい景色があることさえ浮かばないのであれば仕方ない、と開き直れたらいいんだけど、それもできず、一人で悶々と考えては暗闇に落ちていくような感覚。自分の行動ひとつひとつに責任が生じること、そしてその責任は自分でとっていかなくてはいけないことを考えると、やはり多くの責任を抱えることはできない。みんな、うまいこと適当に流してやっているんだろう、だからいちいちこんなことを頭を悩ませたりしない。でもわたしはどうにもその、自分を守るためのゆるい考え方というものができない。他者から求められているもの以上に自分の満足感を優先し、その組織の中で「やるべきこと」として課されているものをおろそかにしてしまうというのは、やはり、そこに所属する人間として失格なんだろうか。組織という大きな装置の中に組み込まれたひとつの歯車としての機能を果たせないわたしなど、ほかのより優れた、要求スペックを満たした部品に置き換えられて当然なのかもしれない。とはいえ法律がそれを許さない以上は、組織はわたしを簡単に切ることなどできないんだろうけど。じゃあその中でわたしはどうしたらいいのか。空気を読んで、組織のためにいちばん良い方法として、相手がもっとも気持ちよく、いらないものを処分できることにせめて貢献しなくてはいけないところだろうか。それならば他者と生きるこの社会でせめて存在していても大丈夫だろうか。いつもそこがわからない。人は完璧じゃない。誰かに求められた使命を百点満点で果たせる人など、きっといない。そもそもあるひとつの組織でうまくやれなかったとして、それがなんだろう。世界は広いのだから、ほかにもっと自分に適した場所があるかもしれないのだから、自分の存在意義を疑うほどに考えすぎる必要などないのかもしれない。いや、必要かどうかじゃないな。本音ではこんな組織のことは、わたしはどうでもいい。でも、いまわたしが関わるあるひとつの組織の中で、せめてわたしは社会的動物として問題ないということを、それがあくまで一例だとしても、確認したかったのかもしれない。わたしがそう思えるための場所という役割を、まずはその組織に託しただけだ。


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