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ごはんのあたたかさ
お米という意味ではない、食事全般を表す「ごはん」という言葉の無防備さが苦手だ。
丸裸で無垢な「ごはん」という存在を裏切ってはいけない、という気持ちが働く。
この言葉に限らず、食べたかったものが食べられない人を見ることも、勝手に切なくなってしまうから苦手だ。
何かを食べたいと言っている人に、それはないよ、と伝える時、強い言葉でNOを突きつける人が苦手だ。
なぜか自分が言われる分には大丈夫で、側からそれを言われている人を見るのが苦手だ。
この感覚に初めて気づいたのは7歳の時。
期間限定の絵画教室に行く途中にキッチンスペースのような場所があり、食べ物を持った子供たちが並んでいた。わたしが物欲しそうな顔をしたのだろう、母はわたしに「食べる?」と聞き、財布を持ってキッチンの方へ向かっていった。
「これは子供達の分しか用意していないものなの」と、そこにいた大人の女性は英語で答える。英語がわからない母は顔にはてなマークを浮かべながらなんとか理解しようとしていて、女性は何度か、最後は少し強めに「あなた達の分はないよ」と言った。
わたしは母を呼び寄せ、売り物じゃないことを伝えると、母は「そうだったんだ〜」と笑った。
たぶんだけど、特に傷ついている様子はなかった。
その日の夜、わたしは、母がわたしに何かを食べさせようとしたこととそれが果たされなかったことがなぜか心苦しく、申し訳なさと愛おしい気持ちがあふれ、弟がすやすやと眠る横で静かに泣いた。
母が攻撃されたと思った?それもちがう。それにごはんが絡まなければとくにわたしは苦しくならない。
あれから20年以上経ったけど、未だに「ごはん」が苦手だったことを、ほんのさっき思い出してしまった。
きっと相手はなんとも思っていないだろうけど、わたしはまたごはんが絡む話で切なくなってしまった。今日一日そのことが忘れられなかった。
「メシ」「お昼」「ランチ」「ディナー」「飲み」(これはちょっと違うか)は大丈夫。
「ごはん」はだめ。嫌いという意味ではなく、わたしをどういうわけか泣かせてしまうから、だめです。
文字に残す時、ひらがなで「ごはん」と書く人はきっと優しいと思う。
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