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自由と覚悟

エレンが求めてた自由ってなんだろうってずっと思ってた。
でも、いま思うのは、自由とはなにかを定義するのはあまり重要じゃなくて
エレン自身がなにかを強く求め、その求めたものを「自由」と彼の中で名づけた。自由というのはただそれだけのことなんだと。
じゃあエレンって結局なにがしたかったの?なにがほしかったの?って
それは「自由」としか言いようがないのです。
この世界で生きていくうえで、毎日人生に100%満足しながら生きていくことは難しいでしょう。いないとは言わないが。てかいるんだろうけど、それができる人はものすごい才能を持っている。生きる才能がある。
しかし多くの人はその才能を持ち合わせていない。なにをしたら満足するかもわからない。たまに楽しい瞬間もあるけど基本的にはちょっとつまらない。でも人生ってそんなものでしょ?とも思うし、よくそう言われる。そう折り合いをつけて生きていくしかない、だって、満足してもしなくても、生活は続くのだから。
でも、エレンはちがった。やっぱり満足したかったのだ。そして満足することを諦めなかった。
なんか面白いこと起きねぇかなぁなんて言ってた少年が、親友に見せてもらった本を通して、壁の外の世界を知る。
壁の外には自由は広がっていて、海という商人が一生かけても取り尽くせないほどの塩水でできた巨大な湖があって、壁の中にはないけど外にあるものとして炎の水、氷の大地、砂の雪原があって。その景色にたどり着いたなら、自分は自由だと。エレンはそれらの景色を自由の象徴として扱った。
自由というものを手にした時にはきっと言葉にしきれない爽快感が待っているんだろうって。その感覚を味わってみたい。その気持ちと、仲間たちを助けたい、みんなの役に立ちたい、母さんの仇をとりたい、そんな感情も後押しになったりして、ただの英雄になんかなれなくて、やりたいことをするには悪いこともしないといけない。なにかを求めたのなら一切罪をもたないクリーンな状態ではいられない。それでもやるか、やらないか。あんなに自由になりかったはずなのに迷って、決断して、それは当然みんなにとって最善の選択ではなかったし、それ選べちゃうんだという気持ちもわかるんだけど、でもやっぱりエレンはサイコパスでもなんでもないということを、わたしは改めて言いたい。
でも、あの決断ができてしまう主人公を受け止めるには、サイコパスとか最低の人間だと言わないと処理がおいつかない人たちもいる。その人たちはきっと優しいのだろう。他人を傷つける選択をとらない、人と共存することに向いている社会的な人たちなんだろう。それはそれですばらしいことだ。
でもね、自分のやりたいことを突き通したいと思うことそのものは否定したくないのがわたしなんだ。エレンのやった地ならしは最低だが、でもやりたいと思った気持ちはしかたないよねと受け止めることで、エレンを肯定したい。
いや、ちがう、わたしはエレンを肯定することを通して、自分自身を肯定したいんだ。
わたしはエレンのような意志の強さを持ち合わせてはいないし、渇望するほどほしいものもない。まるで少年時代のぼんやり空を見ていた頃のエレンだ。でもせっかく生きているのだからエクスタシーに達したい気持ちはわかる。いやみんな少なからずあるんじゃないの。わたしはある。それがなにかは見つけられていないけれど。エレンは見つけた。それが「壁の外に行って自由を感じる」だった、ただそれだけのことで、この求めるものがなにかは、本人以外にとってはどうだっていいんだ。ただそれを求めるには少なからずなにか代償があるし、それでもお前はやりたいのか?と突きつけられる瞬間があるけど、それでも「やる」を選択しないと、実はなにも手に入らないんだ。自由ってただ甘美なものじゃなくて、自分で覚悟をもって選択することをいうんだと思う。

進撃のことは解釈がコロコロ変わるので、たぶんこれ消します。
しかし長々書く場所がここしかないもので、一旦吐き出していまの気持ちを消化させてもらいます。

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