見出し画像

「政治的中立」と自己確立


こんにちは。capiciです

「中立」という言葉は響きがいい。
どこにも属さない一匹狼的な響きがあるし、波風をどこにも立てたくないという平和的なイメージがある。加えて「協調性」を善とする日本社会にとって「中立」は親和性が特に高い。日本人は中立的という言葉が好きな気がするし、中立でいることが正義だという価値観が内在化して、意見を発することをできない人間が多い。

それは「政治に無関心」という国民性に深く繋がっている。
「中立」という言葉の大きな副作用。
それは、無関心とか無干渉という概念の蔓延である。

新聞記者を志望していると、おのずと政治的イデオロギーと直面することになる。
読売新聞、産経新聞などは保守寄り。朝日新聞や毎日新聞、共同通信、神奈川科新聞、東京新聞などはリベラル寄り。こんな風に新聞社ごとに色がはっきりしているから、志望する際には、この違いを研究することが大切になってくる。自分自身の取材したい内容があったとしても各新聞社によって切り口や角度が違ってくるからだ。同じトピックだとしても表現の仕方や捉え方で記事は姿を変える。

そんな僕も記者になりたいと意識するまでは、右翼といえば、愛国心や現政権擁護のイメージが。左翼といえば、売国奴や革命のイメージがあった。そんな僕は、「右翼」「左翼」を「悪」だと決めつけ、できるだけそんな人たちにならないようにと決めていた。2元論を持ち出すことの危うさはあるが、無知であった僕には仕方がなかった。
だから、知らず知らずのうちに考え方が偏っていくのを恐れ、新聞という媒体からは距離を置いてすごしてきたのだと思う。ベースの知識がないものにとって、論調が間違っていると判断することは難しい。新聞社はそれっぽい論拠でそれっぽい主張をしているからだ。各社の社説を読んでみても「あながちまちがっていないな」と思わされることが経験的に多かった。

しかし、新聞から距離を取って、中立を保ってきたことの代償は大きかった。自分の中では「中立を保っている」と思っていたにも関わらず、実は単に社会事象に「無関心」であったと気づいたからだ。興味のある対象は多くあるはずなのに、自分が何を支持していて、どの媒体で、どのような層に何を伝えていきたいのかが明確ではなかった。自分のことすらわからなくなってしまってることに気が付いた。
そんな僕は、自分の意見を持つことができないし、どっちつかずのことしか発言できなかった。もちろん何かを論ずることもできなかった。「保守」の言いたいこともわかるし、「リベラル」の主張もわかる。トピックによって主義が変わることだってあるかもしれない。そして、どちらが正しいということでもない。考えれば考えるほど中立でいることの難しさ、中立とは何かということを考えるようになった。「保守」「リベラル」双方の方に主張があり、考え方の発信点がある。もちろん、絶対的な知識が不足していたことも否めないが。
ただ、現実問題、論を進めるときにはどこかのポジションにいなければいけない。それは避けては通れない。視点、視座、視野の重要性はそこに繋がっている。
自分の意見を語る上で、どちらの方の考えが近いのか、民主主義制度の下にいる以上、「中立」ではなく自分の意見をもっておくことは必要十分な条件であることも事実。中立的に考えると、ニッチもさっちをいかない。両論併記で文章を中立的にすることはできうるかもしれないが、言いたいことがぼやけてしまうし、凡庸な文章になってしまうデメリットがある。

「中立的」という言葉は一見響きはいいかもしれない。しかし、中立的とは何かを突き詰めていくと、最終的にそれが幻想であったことに気づいた。もちろんこの文章は僕の意見だし、間違いだと思う人もいるかもしれない。
僕の考える「中立」とは無関心や無干渉の意識に持ち上げられた仮の言葉である。
だから、中立という言葉を信用せず、自信をもって、自分の意見を発信していくことが重要だと思う。自分の意見が蓄積されれば、自己が確立されていく。政治に限らず、思い切ってポジションを確立する勇気も持ち合わせていきたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?