【自己紹介】腰椎椎間板ヘルニアになった②

前回の自己紹介の続きです。

今回の発症までのことをお話しようと思います。


休職する

人生で初めて休職という制度を利用する。
ここまでなにも知らずに生きてきたけど、傷病によって一定期間以上休職すると傷病手当金と言うものが貰えます。

ちなみに国民健康保険は傷病手当の制度がないと言うのも見かけました。なので自営業の方や、医師国保、薬剤師国保に加入している方は貰えないようです。こういう時に制度のありがたみを感じますね。

処方されたリリカを飲むと左足の痺れや痛みが軽減して、家の中は動けるようになりました。
ただ基本的な姿勢はうつ伏せでお腹のところに人をだめにするクッションを置いて少し屈曲した姿勢でした。夜寝るときもこの姿勢をしていました。

見切り発車

休職から2週間後に再診がありました。
自分としてはまずまず座っていられたし、介助をするような業務でなければ仕事できると思っていました。
(またここで無理をする性格が仇となる)

なので制服に着替え、スタッフルームで受診の順番を待ちました。
私のその姿を見た先生は恐らくこう思ったでしょう。

ああ、この人は医師の指示を待たずに
自己判断で仕事に戻ったな

先生は「もう大丈夫ですかね、薬はいりますか?」と言い、診察はアッサリ終わりました。
焦りがなかったと言えば嘘になりますが、今思うと先生の指示を聞いてからきっちりした形で復職すればよかったなと思いました。

厳しい現実

復職当初は上司や先輩に配慮してもらい、介助量の少ない患者さんを診させて貰いました。
しかし担当していた体の小さな女性のリハビリでさえ腰と左足の症状がきつい。
あと事務仕事をしてても30分も座っていると痛みで座っていられなくなる。
リリカの眠気と闘いながらの仕事でした。
先輩は理解があって、頻繁に「業務量どう?」と聞いてきてくれましたが、科長が曲者でした。

わざと(?)私の前で「あー腰いてー」と言ったり、直接言われたわけではありませんでしたが、まだ働けないの?的なニュアンスを感じました。

そんな中、我慢して働いた結果

徐々に痛みは減ってきたものの、足の痛みと付き合いながら働いていました。
新人指導や実習担当、勉強会企画など、普段の業務+αの仕事をし、残業も増えていきました。
その上、科長の真意がよくわからない有耶無耶な指示を部下に噛み砕いて伝えたり、なんかもうとにかく毎日疲弊してたと思います。
コロナ禍も続いており、その対策も続いていました。陽性者と同室だった方に対応するときは濃厚接触者扱いでfullPPEで病室でリハビリ。この病室でのリハビリがまた腰にくる。
独身一人暮らしともあってその役割がどうしても回ってくる。たぶん限界でした。

それは2020年11月に起きた


朝、職場に行くのにも気持ちが落ち込んでいて、自分を発奮させるような音楽を聞きながら通勤しました。
着替えてる間も今にも泣きそうで、そのままトイレに行ったら涙が止まらず朝礼の時間が始まっても出ていけなくなりました。
30分以上篭っていたでしょうか、女性の先輩が探しに来てくれました。
先輩は話を聞いてくれ、「いいから今日は休みなさい」と言ってくれました。
その日は仕事にならないことはわかっていたのでお言葉に甘えて帰宅しました。
家に帰ってからもずっと涙が止まらず、結局翌日も翌々日も仕事を休みました。

ここまで来てもなかなか精神科というところには行くのは躊躇われ、自分自身としては月経前不快気分障害(PMDD)と思っていて婦人科を受診しました。

婦人科にかかったのですが、これはうちではない、精神的なところからくるものだと言われてしまい、ついに心療内科にかかることになりました。

ちなみに椎間板ヘルニアになりやすい因子として
「うつや不安、ストレス」
もあります。

診断は「適応障害」
ここから結局1年間休職し、そのまま退職することになりました。
仕事を休んでいたのでヘルニア療養には良かったと思います。後半は散歩なども出来ていましたし。

その後現在の職場(回復期リハビリテーション病棟勤務)へ転職しました。

次回は腰椎椎間板ヘルニア再発までの経緯をお話したいと思います。
ここまで読んでいただいてありがとうございました!

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