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足並みそろえるって本当はとっても難しい

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

子どもの頃、『学研のひみつシリーズ』が好きで、よく読んでいたのを覚えています。

その中でも、『忍術手品のひみつ』が大好きでした。今、アマゾンでこの本の表紙を見て、「自分が読んでいた物と全く同じ表紙だ」と、懐かしく思っています。

この本の表紙にもあるように、「忍者と言えばこの格好」とか「忍法とはこういモノ」という、忍者のイメージを具体的に頭の中に思い浮かべている時の内容は、この本の影響がとても大きいんじゃないかなと思っています。僕の中の忍者は、『忍者ハットリくん』のような何でもできるスーパーマン的な存在ではなく、もっと泥臭い地道な活動を誰にも気づかれないように様々な工夫をしながら暗闇に紛れて行う存在として捉えています。

これは、子どもの頃に、『忍術手品のひみつ』という漫画による解説本を読んでいた事が大きいんじゃないかと、今は考えています。

これが、もしも文字だけで書かれている「忍者についての解説本」だとしたら、そもそも読んでいない可能性の方が高いですし、もし読んでいたとしても何度も読み返していた可能性は低いですし、ここまで具体的なイメージが頭の中に残っていたかどうかはとても怪しいと思っています。

大人になってから自分の意志で様々な本を読むようになってから、「知らない事柄については、図と一緒に説明されると理解しやすい」という“図のパワフルさ”が発揮される場面に何度も遭遇してきました。自分の体験としても人に伝える際にも。

言葉を駆使して、論理に想いを乗せて話をするのは大前提ですが、“何かしらの概念”を共有する必要がある場合には、その概念を、そもそも知っている人と、知らない人が一緒に話をする状況になります。
そんな時に、図を用いないまままに言葉だけで概念について説明をしたところで、これを共有するのはなかなか難しいわけです。

様々なところで語られる『6人の盲人と象』の話のように、人それぞれで理解した概念が異なる状況になってしまって同じ事象について話をしているはずなのに、完全に対立してしまう状況というのをよく見聞きします(これを「群盲象を評す」と言う言葉があるというのを初めて知りました。調べるって大事)。

その時に起きているのは、実際には“象”のように形のある物ではなく、「考え方」とか「物事の捉え方」とか「イメージ」とか「コンセプト」といった、とても観念的な概念についての「理解の相違」です。これが、物理的に形と質量がある物体であれば、見る・触る・使うなどの行為によって「理解の擦り合わせ」を行う事は時間させかければ可能です。

でも、実体の無い“概念”については、どれだけ時間をかけても「目に見えない」ままであれば、永久に「理解の擦り合わせ」ができないままの状態でありながら、「さも、擦り合わせができたかのような状態」でお互いに振舞う事ができてしまいます。

そうして、大抵の場合は、この「さも、擦り合わせができたかのような状態」になってしまえば、最早、それが実際にはズレが生じているという事に気が付く事は難しいでしょうし、仮に誰かがいつか気付いたとしても、それを途中で指摘して方向修正を行うというのは、そのコミュニティの内側に属する人達にとっては本当に至難の業だと思います。

現に、「全員が全員とズレている事に気が付いている」という状態に陥っている組織をたくさん見てきましたし、そういうお話もたくさん耳にする事があります。

だけど、それを「どうにかしようとしてもどうにもならないし、実際にどうにもならなかった」という、諦めが色濃く漂うお話もたくさん見聞きするんです。

“対話の会社”を謳っている、僕たちプロタゴワークスからすると、「みんなで対話をすればそのうちその状況は改善します」と堂々とお伝えできますし、実際にしてもいます。

だけど、これはあくまでも「そのうち」です。
「すぐにどうにかなる」とか「すぐにどうにかして」という事を約束する事はできません(もちろん、「すぐにどうにかなる」というケースも多々ありますが、それを保証する事はできません)。

何しろ、「それ相応の時間をかけて」今のその「どうのもならない状況」は作り出されてきたわけです。言うなれば、“熟成の一品”です。

そんな長時間かけて“熟成”させてきた状況を、「何か一発で元の状態どころか、最良の状態にしておくれ」というのは、そもそも無茶な相談でしょう。

もっと言えば、「みんなで対話する」が一つの組織の中で効力を発揮するためには、「対話が効力を発揮するための土台が有るか無いかを見極める事が必要」です。

その為にも、僕たちは“図のパワフルさ”を大いに活用する事にしています。

その中の取り組みの一つが、「その組織の状況を図式化して全員で共有する」というものです。

これをする事により、いわゆる「組織や仕事を自分事に」という事を可能にしています(もちろん、これ一発で「自分事化できる」というのを保証するわけではありませんが、そうなる事もよくあります)。

一旦、“組織”という言葉を代表する存在として“会社”として書く事で、話を一般化してみようと思います。

会社には実体がありません。

会社は、設立登記をすれば「出来上がります」。何の実体もないのに、誰もが「会社が~」なんて事を話していますが、会社はどこにも存在しません。

会社の経営者は存在しますが、会社は経営者ではありません。
会社の社屋は存在しますが、会社は社屋ではありません。
会社の社員は存在しますが、会社は社員ではありません。

だけど、それらを全て内包していながらも、実際には何の実体も無い、単なる概念上の存在です。
概念上で存在する“ことになっている”だけの、法律という概念の中で人格が与えられただけの存在です。
会社は、実体としては、どこにもいません。

いないからこそ、会社内にいる人達の中で「会社とは何か?仕事とは何か?」について話をしたり、イメージをしたりすると、その理解は、必ず一人一人微妙に、時には、大いにズレています。

だけど、大いにズレたままでは組織としてのパフォーマンスが最大限に発揮される事はありません。
だから、そのズレ幅を出来る限り極力小さく狭くしていき、そこで生まれるのは誤差程度にしていく事で、最大のパフォーマンスを発揮していくのは、会社という組織で働くうえで、顕在化しているか潜在的にかはわかりませんが、全ての人の願いであると言えるでしょう。

なぜなら、「今よりもっと楽をして今よりもっとたくさんの成果(“価値”とか“意味”とか“良い影響”言うのかもしれません)を出せた方が良い」と考えないわけはないからです。

そうなる為には、その会社のみんなが「自分達は、群盲象を評す(知ったので早速使ってみる)に陥っていないか?」という「問い」を持ちながら、会社の中の他者と関わり、会社や仕事の中で必要な概念にズレが無いかを確認するためにも、“図のパワフルさ”を活用していく事が重要なんじゃないでしょうか。


『忍術手品のひみつ』を読んでいた頃から35年くらい経った今でも、僕の中の忍者という存在は、どうあっても実在の人間が様々な術を駆使して、何とか使命を果たそうとするとても泥臭い役割を担った集団に属する人というイメージが抜けず、およそ、武士や侍という存在とは全くかけ離れた存在として認識しています。

でも、そんな泥臭くて色んな術を駆使して生き延びて使命を果たそうとするその姿は、現代の“組織”で働く人のプラグマティックな部分と大きく重なるように感じています。

だから是非『学研ひみつシリーズ』から、『会社組織のひみつ』を出して欲しいなと思います。

今検索したらどうも存在していなさそうなので、売れないかもしれませんが、僕は出たら必ず買います。



あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/


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