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具体と抽象の行き来をしたら

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

昨日は、ウチの会社が定期的に開催しているオンライン哲学対話を実施しました。
昨日のテーマは「経験」。
このテーマで問いだしをした中から、「経験と知識はどう違うのか?」という問いでスタートしたんですが、皆さんの話を聞きながら自分でも色々と考えて、とても楽しい時間を過ごせました。

で、昨日の哲学対話の中でも出ていた話でもあることなんですが、例えば、「本を読んでそれまでに知らなかった知識を知る」というのは「知識が増えた」という事になるんだろうなと思うんですが、「(それまでに読んだ事のなかった)本を読む」とか「知識を増やす」というのは行動だから「経験を積んだ」って事にもなるんだろう。でも、傍から見ると「本を読んで、知識が増えた人」という見え方になるんだろうな。ということは、自分の視点で見ると経験と知識が両方増えたって事になるけど、他人の視点で見ると知識を増やした人ってことになるのか?いや、でも、他人から見ても、その見ている他人だって同じように「本を読む」という経験をしてたら自分と同様の経験をしているんだから、自分の視点と同じ物の見方をしてるはずだから、「知識が増えた人」なんて見方をするはずもないのかな。
などと、答えのなさそうな事を考えていたんですが、哲学対話の中で「経験と知識がぐるぐると回っていく」という話もあってしっくりきていて、結局は、「知識を得るという経験を通して知識が積み重なって次の経験につながる」って事なのかなと、今はなんとなくすっきりした感じがしています。

経験と知識って言うと、なんとなく対立する概念なのかなとも思えるけど、知識は「誰かの経験」を共有するために発明されたモノで、言語や絵や文字が発明されてから存在しているんだろうなと推測できるので、「動物には経験しかないんじゃないか」という話もきっとそうなんだろうなと思えたし、知識って人間だけに許されている高度なツールなんだろうなと(ゴリラとか他の一部の動物のように「言語らしきコミュニケーションツール」を使う動物はいるようですが絵や文字は使っていないようなので)。

そう考えると、ただひたすらに「知識」を求めて本を読んだり情報収集するのもその行動自体が面白いってこともあるんだろうし、とにかく自分の体を使って旅をしたり遊んだりするという「経験」を求める行動も面白いんだろうなあと。どっちも「行動」して経験を得ているわけで、それによって自分の中にあるその行動によって得られた「何か」を誰かに伝える時に「知識」として自分の中から外界に取り出す。そこで、究極の具体だった「自分だけの経験」を「他人に伝えるための情報」として抽象化させる。

ということは、経験と知識は表裏一体というか二つで一つというか両輪の存在という事で、「経験という具体」と「知識という抽象」の間を行き来して出力することで、自分だけのモノを他者と共有できるようになり、自分の中だけに留めておくのは勿体ないような事柄を共同体に還元して、より良い状態に近づけていくための材料を増やすことにつながる。そんな風に使う事もできるよっていう話にする事もできるのかもしれないなあ。

だとすると「自分の経験」という「自分にとっての究極の具体」を、どんな解像度でどんな形式で抽象化すれば他の人に受け取ってもらう事ができるのか。どうしたら「汎用性の高い知識」にして、「自分と他者の間に橋を架けることができるのか?」という非常に難易度の高い事を、繰り返してトライし続けているのがこの人間社会において日常的に繰り返されているコミュニケーションって事なのかもしれない。

昨日の哲学対話を思い返して文字にしようかなと思っていたら、こんな事を書いていました。
で、書き終わって時間をおいてあらためて読み直してみたんですが、極めて当たり前のことが書かれているような気もするし、これと言って新しい発見をしたわけではない気もするし、だけど、自分の中ではこう何というか「自分の中にあった考えに圧力が加わってグッと強度と重みを増してきた」みたいな感じが手に入ったような気がしないでもないんです。

あれ?自分の中にあるボンヤリしたものを最後に文字にしてみたのに解像度がめちゃ低くて誰にも受け取れない状態になっているような・・・。


あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/


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