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ホームセンターには魔物がいる

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

今日、とても大きなホームセンターに行きました。

目的は、バーベキュー用の炭を購入するためです。

「炭なんて何でも同じだろ」と、キャンプ未経験者の僕は考えていました。アウトドアの知識は皆無です。休日に一人用コンロでバーベキューを時々する程度。そんな僕がこれまで買っていた炭は、当然ながら「一番安い炭」でした。

でも、以前に近所の方から分けてもらった炭を使っていた時と、自分が購入した炭との「明確な違い」が、バーベキューを2回くらいやったらわかるようになりました。

安い炭は、とにかく爆ぜるんです。

バチンバチンと、火がついていくと炭が爆ぜて、火の粉と言うよりももっと大きめな灼けた炭の破片が辺りに飛び散ります。庭でバーベキューをやるんですが、なかなか勢いよく飛び散りこれが原因で火事にでもなったら洒落にならないのでその行方についてはいつも気になります。もっと広い、それこそキャンプ場のような場所であれば充分に距離を空けられるので問題無いんだとは思うんですが、これだと家の庭でやるのは気が引けます。
以前には、この灼けた破片が耳に直撃しました(物凄く熱かったです)。
目に向かって飛んできた灼けた破片を上手く避けたので、事なきを得ましたが、さすがにヒヤリとしました。いやホント、色んな競技をやってディフェンス能力が高まっていて良かったです。

アウトドア的な知恵があればこの事態を未然に防いだりする事もできるのかもしれませんが、今の僕にはその知恵の持ち合わせも無ければ、それらの知恵の存在を知るための努力をするだけの情熱もありません。とにかく、ただ安全に楽しく気軽にバーベキューがしたいだけでした。

でも、近所の方に分けてもらった炭を使った時は、全く爆ぜませんでした。
その炭は形状から僕の買っていた炭とは全く違っていたので、何気なく「どこで購入したのか?」と聞いていたんです。それが、今日行ったホームセンターでした。
いわゆる、どこにでもある超メジャーなホームセンターで(僕ですら知っている)所で売っている備長炭だ、と教えてもらっていたのでそこにその炭を買いに行ってきました。

ホームセンターって場所は、いつ行ってもとても気分が高まります。

まず、その広さ。
パッと見ただけじゃ全く全貌が明らかにならない程の広さ。「あっちの端っこまで行って、こっちの端っこまで行ったらどれだけの距離歩く事になるんだ?」と思うような売り場面積の迫力にワクワクします。

そして、物量。
そもそも、1日かけてもこれらの品物を全部見て回る事は不可能だと一目でわかる程の物量。加えて、ジャンル毎に区分けされているにも関わらず、その1ジャンルに置いてある品物の種類の豊富さ。何らかのジャンルの素人から趣味人からプロまでを満足させる品揃えにドキドキしてきます。

それら全てが過剰な程のボリュームだからこそ、それが生み出す迫力に興奮冷めやらない感じです。

いつ行ってもそうなんですが、今日みたいに、完全な目的があって立ち寄った時でも、その目当ての物を探す為に歩いているにも関わらず、当初の目的に関係無いどころか、全く興味すら持っていなかったし、そもそもその存在すらも知りもしなかった様々な物を見つけると、何故なのかわからないけど凄く「欲しい」という気持ちが湧いてくる事がよくあります。

この物欲が刺激される感じが、僕にとっての「ホームセンターの楽しさ」である事は間違い無いと思っています。

今、この瞬間に、この物を目にするまではその存在を知りもしなかったのに「欲しい」と思っているというのは、何をどう考えても理屈に合わないはずなのに、その「欲しい」という欲求に抗うためにはとてつも無い精神エネルギーを必要とする。
これについて、「とてつもなく理不尽だなあ」と感じるんです。自分の中で起きている事なのに。自分の中に湧いてきた欲求なのに。

「それが人間の性だから」とか言っておけば、これは別にこれ以上考える必要が無いという事にできるし、「そもそも人間に備わっている本能のような物だから仕方ないよね」って自分を納得させる事もできるんだろうなとは思いますし、そもそも、これまでの自分はそうしてきたんだろうなと思うんです。でも、それだと何だか自分の事を何もわかっていないうえに、ただただ脳みそから出される何らかの物質によって操られる「感情の奴隷」になっているような気がして、とても気に入らないので、こういうのはよく考えてみてやろうと思っているんです。

だから、よく考えてみました。

そもそも、「なぜ存在すら知らなかった物を見た瞬間に、欲しいと思うのか?」から考えてみます。

知らなかったら、欲しくは無いし「欲しい」と思う事はできません。
知らなかった物を「見て」、「存在を知った」事で、「欲しい」という気持ちが起きるんですが、じゃあ、なぜ「欲しい」と思ったのか?
ここには、「触ってみたい」とか「使ってみたい」というのがあるのかなと思うんです。実際に「お試し品」みたいな物を使ってみる事で「欲しい」が治まって満足する事もよくあります。

でも、それだけじゃ「欲しい」がおさまらない場合ももちろんあるわけです。

一つは、試しに使ってみたことでその物の価値や意味を理解して「欲しい」が加速する場合があります。ここまで来たら、後はもう「お財布と相談」のうえで結論が出るだけでしょう。これはある意味当然な結論なので良しとしておこうかと思います。

もう一つは、「見る」だけで「欲しい」になってしまい、使ってみようが使ってみまいが関係無い程に「欲しい」場合です。これは、恐らく「所有したい」という欲求なんじゃないかなと思うわけです。

この「所有したい」という気持ちは、なかなかに厄介です。
なにしろ、その物が今の自分に「必要性が無い」という事を理解できている場合がほとんどだからです。なぜそんな事がわかるのかと言うと、使うか使わないかの視点で考えると「使わなくても良い」という事が見えてしまっているからです。

例えるなら、今までずっと使っていた物があって、それはまだ壊れてもいないし飽きてもいないという場合に欲しくなる新しい物とか。これは明らかに「必要性が無い」状態です。

例えるなら、その存在を知りもしなかった何らかの便利グッズを知った事で欲しくなる物とか。

これは、「それまで存在を知らなかった」わけで、つまりその物が謳っている「便利さ」について、自分自身はそもそも「不便さ」を感じていなかったわけです。
なぜなら「不便さ」を感じていたら、それを何とかしたいと思って何らかの対策は講じているはずなんです。
もちろん、そこには「自分で調べる」とかも入ってくるとは思うんですが、なにがしかの工夫をトライしたり、それについて考えていたりするはず、その「不便さ」を解消する「何か」があったりしないかなあと、ボンヤリだろうが何だろうがどこかしらで考えているはずなんです。
もちろんここで言っている「考える」には、日常的にその「不便さ」に対して感じる「不満」も入っているので、それに付随する「愚痴」みたいなモノですら、「不便さ」については「考える」事になってくるわけです。
でも、そういう「不便さに対する不満から発生している何か」すらも存在していないところには、「必要性が無い」わけです。

そこに在るのは、「純粋にその物自体を所有したい」という、所有欲のみなんじゃないのかなあと、自己分析をしてみて思うんです。

じゃあ、「所有する事は、自分にとってどういう意味があるのか?」

そんな「問い」が立つわけです。

ついさっきまで、自分の中に存在してすらいなかった物を所有する事の意味とは?
なぜ、さっきまで自分の中に存在していなった物を所有すると気分が上がると思えるのか?

これらを考えると、「所有する事で、その物を自分の自由に使いたい」というのが出てくるのかなと思うんです。

でも、これって、「もし、所有したとしても、使う事ができないとしたら?」という事を仮定してみると、「じゃあいらない」ってなる物もあるんだと思うんです。そうすると、「使用不可」という条件が付くと「所有しなくても良い」になる物もある。

だけど、「そうでは無い物もある」と思うんです。なぜなら、現実的には「長らく使用していない」とか「もう使用するつもりはない」とか「購入してから一度も使っていない」とかの、実質「使用不可」なのにも関わらず、それでも所有している物があるからです。

そうなってくると、その他の「所有欲」もありそうだ、となってきます。
例えば、「それを所有している事実を誰かに伝えたい」とか、「誰かが持っていない物を自分は持っていると思いたい」とかの、「他者の存在」に必ず行き当たるような気がするんです。

こういうのを「承認欲求」と呼んだりするのかもしれませんが、そういう心理学的な名称で呼ぶと「何だかよくわからないけど自分の力だけでは抗えないような、人間の根本にセットされている根源的な何か」みたいな認識に、いつのまにかすりかわっていってしまいそうなので、ここは昔からの名称で呼んでいきたいと思うんですよね。

「いいかっこしい」とか「見栄」とか「虚栄心」とかって。


「誰か」の存在によって、自分にとって「本当の意味では必要性の無い物」を購入する。

完全に「自分以外の何かの為」という理由によって駆動した“己の脳みそ”が生み出す何らかの脳内物質によって、今この瞬間まで「存在する認識していなかった物」と、「誰だかも認識してない見えない誰か」の為に、発生させられた「物欲」や「高揚感」にカムフラージュされている事に気づきもせず、元々自分が「みっともない」とか「かっこ悪い」と感じていたような価値観から来る振る舞いをしようとしていたのかもしれない。

そういう事が、多発しているかもしれない場。それが、僕にとってのホームセンターなのかもしれません。

そんな事に気づいていたのか気づいていなかったのか、今日のところは、お目当ての炭を買っただけでお店から出てきました。

今後は、ホームセンターに限らず、様々な店頭で見かける「商品の持っている価値」もそうですが、それと同時に、「商品の持っている意味」をちゃんと考えるって事をしないといけないよなあと痛感しました。

そうしないと、「お店の思惑」にこれからもハマり続けてしまうわけですし、そもそも「炭」一つとっても、その物の役割や意味を考える事から始めないと、まさに僕のように「安物買いの銭失い」状態を続けた挙げ句、「何か」は継続しているのにノンサスティナビリティでフィニッシュです、ってなっちゃうかもしれませんので。

それだけは、そんな致命打の被弾だけは、持ち前のディフェンス能力を発揮して是非とも避けたいところです。


あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/


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