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まるで気合だと連呼するが如く

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

「精神論じゃ仕事は進まないんだよ」

その昔勤めていた会社で、上司からよくこんなニュアンスの事を言われていたのを思い出します。

その頃は、「精神論じゃダメって言われても、そもそも精神論って何なんだ?」と思っているだけで口に出して訊いてみた事はありませんでした。なぜなら、僕がよく分かっていない事を質問すると、バカにされたり呆れられたり叱責されたりするという事がそれまでにたくさんあったからです。

ビジネス書などを読んでいると、昔の上司と同じように「仕事を進めるためには精神論じゃダメ」というような内容が書いてあるのをよく見かけます。

そして、そんな風に書いてあるわりには、本の途中や終わりの方で「最終的には、あなたの勇気です」とか「覚悟が大切です」とか書いてあったりするのもよくある事なので、ますます混乱してくるんです。

そんな「アンチ精神論」に遭遇する度に調べてきてはいましたが、やっぱり分からないままだった精神論を、あらためて検索してみました。


精神論
【読み方:せいしんろん】事実や数字に基づいた客観的、論理的な考え方ではなく、精神と物質の関係に対する主観に依存する物事の考え方。「根性論」などと類似した表現であるが、「根性論」は精神的なものの中でも根性のみに絞った表現である。精神論の代表的な例としては、「やる気があれば何でもできる」「願えば必ず叶う」などの考え方がある。

これが、今回検索してみて出てきた「精神論」の意味です。

あの頃に調べた物と同じ内容かどうかは覚えていませんが、書いてあるニュアンスとしては自分が受け取っていると思っている「精神論」の意味とほぼ同義だなと思っています。

こうやってあらためて意味を調べてみる事で、また分からなくなってくるんです。

「精神論で仕事が進まないと言われるのはなぜか?」

そんな「問い」が生まれてくるんです。

ここには、「精神論の代表的な例としては、「やる気があれば何でもできる」「願えば必ず叶う」などの考え方がある」と書かれていますが、そもそも「やる気があれば何でもできる」とか「願えば必ず叶う」なんて言葉を、「ここに書いてある文字通りに、現実世界の中で再現性を備えている」と考えている人はなかなかいないと思うんです。

例えば、「昨日1日だけやる気を出して頑張ったから今日の試合ではホームランを打てるぞ」と思っても出来ないだろうし、「(GW明けに)明日からいきなり夏休みになりますように」とか願ったとしても叶わないのは、誰であってもみんな理解している事なんじゃないのかな、と思うんです。

そもそも、精神論の意味の冒頭には「事実や数字に基づいた客観的、論理的な考え方ではなく」とあります。という事は、「事実や数字に基づいた客観的、論理的な考え方である」という事が、精神論とは逆の考え方であり、僕の昔の上司や件の本を書いている人達からすると「良い考え方」とされているわけです。きっとこれが論理的という事なんだろうと受け取っています。

もちろん、仕事をするうえで「論理的に考える」というのは、効率化をはかったり生産性向上のうえでとても大事な事だと言うのは理解しているつもりです。

その上で、この「精神論」の意味をもう一度見直してみると、この解釈はかなり恣意的なんじゃないかなあと感じ始めてきたわけです。

事実や数字に基づいた客観的、論理的な考え方ではなく、精神と物質の関係に対する主観に依存する物事の考え方。「根性論」などと類似した表現であるが、「根性論」は精神的なものの中でも根性のみに絞った表現である。精神論の代表的な例としては、「やる気があれば何でもできる」「願えば必ず叶う」などの考え方がある。

特に、「精神と物質の関係に対する主観に依存する物事の考え方」という部分の「主観に依存する」という言葉辺りに、ひしひしと恣意的な物を感じます。

これってつまり、「論理的に考える事をせずに、あらゆる事を精神論で捉える」って事を言っているんじゃないのかなと感じるんです。

なんで、「事実や数字に基づいた客観的、論理的に考える事に依存している考え方」って書かないんだろうか?

なんで、「論理的に考える事をしないで、なんでも精神論で片づける人」って書いているんだろうか?

ここに、あの時の自分も違和感を持ったんじゃないのかな?

という事に、今気付きました。

そもそも、仕事をしている以上「論理的に考える」をしていないはずは無いでしょう。そのレベル感が人によってバラツキがあるのは当たり前ですが、大なり小なり「論理的に考える」はしているはずです。そうでなければ、今僕の目の前にある「キーボードを打つ」という動作だって、「このボタンを押すと、この文字が表示される」という事を理解しないという状態になってしまうので、キーボード(又は、それに類似するような機械)の操作を行う事はできません。

つまり、「精神論“だけ”で何かをやる」なんて状態には、誰もなってはいないんじゃないのかなと思うんです。例え、その人の言動が他者からどう見えていたとしても。

と言う事は、“仕事”という状況においては、どんなに些細な行動ですら「論理的に考える」が入ってくる余地が一切無い状態で「精神論“だけ”」で物事が進むと考えている人はいない。

こう言えるんじゃないかと。

こう考えてみると、あの頃の自分がその上司に対して思っていた事の理由がようやく見えてきた感じがしてきました。

「精神論じゃ仕事は進まないんだよ」

「それはそうだと思っています。精神論だけで仕事が進むなんて考えた事もありません。だけど、論理的に考えてやってみた事で進み方がいまひとつなんだとしたら、もちろんそこには、PDCAを回すというのは大前提ですし、限られた時間の中で可能な限り“検証”をしますが、精神的な後押しも必要なんじゃないかと思うんです。あ、“精神的”という言葉の中には“心理的”という意味も含みます。例えば、今で言うところの“心理的安全性”なんかもその一つですし、その人の“モチベーション”に響くような言葉や態度での働きかけというのも必要ですよね。それに、最後の責任はその人に仕事の指示を出している僕が取るので安心して、思いっきりやってきてね。本気出していいよ。最後は、勇気が必要だから頑張って。こんな話をする事も、とても大事だと僕は思っているんです。」

そんな風に、僕は思っていたんだなあという事が、これを書いてみてわかりました。

こうやって考えると、「あなたは精神論を言っているがそれは意味が無い」という批判を相手に向けるという行為が、その相手に対して「あなたは論理的な思考を一切放棄しているから意味が無い」と言っているのとほぼ同義なんだという事が見えて来て、あらためてこの言葉を他人に向けないようにしていこうと、自分自身に戒めようと思いました。

と言いながら、僕自身は「精神論じゃ仕事は進まない」と思った事も無ければ、「精神論は意味が無い」なんて考えた事も無かったのを今思い出しました。

僕自身は、いつだって「(精神的な後押しという意味での)精神論は大事」って思って生きてきていました。

僕にとっての「精神論」という言葉は、「精神的な後押しになるような考え方」という意味でこの言葉を使っていたというのが分かってスッキリしました。


つい最近、パートナー企業さんの経営者に向けて、この「精神的な後押しになるようなモノ」をメッセージとして伝えしました。「ここが正念場です。応援してます。頑張ってください」という言葉を文章にしたんです。その時その場で何度も読み返して欲しくて。

そうして、その正念場を見事クリアした後に連絡をもらいました。

「あれをプリントアウトして持っていたので、とても心強かったです」

そんな風に言ってもらえました。

どれだけ論理的に考えて何をどれだけ準備をしたところで、未来に何が起きるかは絶対に誰にもわかりません。

だけど、その未来に何が起きたとしても「精神的な後押し」がある事で、動揺を最小限に抑えたり、迷いなく動いたりする事は可能だということを、僕は自分の体験や、これまでに伴走をしてきた人達の変容を通じて、明確に知っています。

「精神的な後押し」がある事によって、本来のパフォーマンスを最大限に発揮できる可能性があるのが、機械には無くて人間だけが備えている凄いところだという事を知っています。

だから、昔も今も、変わらずに「(精神的な後押しという意味での)精神論」は大好きです。

僕も他の人もこの世界も「論理」だけで出来ているわけじゃないですから。

そのうえで、「論理」も「精神」もどちらの力も、もっと高めてしっかり駆動させることができたら、もっともっと凄いんだって事を、僕達は知っていますし、いつも信じてこの仕事をやっています。


あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/


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