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嫌い嫌いも好きのうち

こんにちは。
株式会社プロタゴワークスあかねです。

「知りたい」と思う気持ちって、どうして自分でコントロールするのが難しいんだろう?

そんな事を、最近よく思います。


その昔、学生だった頃には「学生は知っておくべき」とされていた“勉強”に関する事に、全くと言って良い程、興味関心を持つことがありませんでした。

授業のテストやその先にある受験というモノがあったにも関わらず、それらの“勉強”について「知りたい」と思う事はありませんでした。

そんな調子なので、当然ながらテストの点も悪ければ、受験が思い通りに進むわけも無く、「まあ、勉強しなかったし、やっても出来なかったからなあ」なんて思って人生を歩んできています。「自分はそもそも勉強が苦手だし、やっても出来ないし、好きになれないし、頭に入らないから勉強には向いていないんだ」とずっと思ってこれまで生きてきました。

でも、最近はこんな風に思うんです。

「あの頃、もっと色んな事について知りたいって思えていたらあの時代をもっと楽しく過ごせたんじゃないかなあ」と。

そう思うくらいには、学生だった当時、「学校に行って勉強をする」という行為が嫌いだし苦痛だと感じていました。宿題はやりたくないし、テストは出来ないし、学校はそんなに面白くない場所だと

そんな昔の自分と今の自分について考えてみると、今は「色んな事についてもっと知りたい」と思う気持ちが人生の中で最も高い状態にある気がしています。

特に最近は、“歴史”について知りたいと思っています。

きっかけは、色々ありますが、今年の大河ドラマ『青天を衝け』を見始めた事も大きいんじゃないかなと思っています。

渋沢栄一に興味を持って、ドラマを見始めて、その人生に興味が湧いて、その人が歩んだ時代に興味が湧いて、その時代に生きていた人たちにも興味が湧いて、今の自分が生きている現代に繋がっている時代の流れに興味が湧いて、そんな感じで“歴史”特に幕末や明治維新に今一番興味が湧いて、少しずつではありますが“歴史”について知る為に本を読み進めているところです。

本を読んでいると、いつかの教科書で見かけた単語や人名によく出会います。

でも、見かけた事があるだけで、その単語が「何の事を指し示しているのか」とか「どんな事柄やどんな背景があったのか」とか「誰と誰がどうかかわっていてそれが(その時代から見て)過去と未来にどう繋がっていくのか」なんていう、ネットワークのような部分を知って理解できてくると、それまでの自分が持っていなかった“見え方”になったり、その“見え方”が自分の中に在った「何か」と反応して、これまでに思いつかなかったような“新しい概念やアイデア”になって出てくるのが楽しいなと感じています。

そうなってくると、「もっと知りたい」という欲求が湧いてきます。これが、僕の今後にどんな風に影響してくるのかなんて全くわからないし、そもそも今は“テスト”みたいに「これを覚えておくと良い点数が取れる」なんていう事は存在していません(そもそもテストがあっても「やろう」と思わなかったくらいなのに)。そんな、「誰か」や「何か」からの評価とは全く無縁の生活をしている状態にある今、「もっと知りたい」に火がついています。

「もっと知りたい」だから、本を読む。知らなかった事を知る。うろ覚えだった事が、正しい知識で上書きされて、確かな知識に変わる。確かな知識があると、そこから、今までに自分が考えた事の無かった事を考えていたりする。そこから、今まで思いもしなかった発想に繋がったりするし、世界の見え方が明らかに変わってくる。勉強をしてきた人や今も勉強を続けている人にとっては、至極当たり前の事であろう事柄が、この歳になってようやく強い実感を伴って味わえるようになってきました。

知れば知る程、分かれば分かる程、自分の中にある「地」が広がっていって、その「地」の中に浮かび上がってくる「図」が増えてくるような、そんな感覚が、「知る」とか「学ぶ」ということには在るんじゃないのかなと思っていますし、この感覚を持てる事が年齢に関わらず「学び」を止めないという事に繋がるんだろうなとおもっています。

僕のように、「勉強が嫌い」とか「勉強が苦手」と自覚している人であっても、「ほんのちょっとしたきっかけ」があれば「勉強もそんなに悪いもんじゃないっつーか、面白いな」と思うようになる事もあるわけです。

ただ、この「ほんのちょっとのきっかけ」というのが、「勉強が必要だと言われている時期」にやってくるかこないかは、周囲の環境や本人の努力や資質も大きく影響してくるんだとは思いますし、この中で自分でコントロールできるとしたら「努力」の部分だけですし、もっと言えば「努力」が「努力」だと自分と周囲が認めるレベルに持っていけるかどうかについても、それをするための環境や資質が大きく関わってくるんじゃないかなと思うんです(ちなみに、僕は少なくとも環境は存在していたはずだと思っているので「努力不足は自分の責任だと認識しています)。

そういう意味では、冒頭に書いた、「「知りたい」を自分でコントロールするのが難しい」というのはその通りに「難しい」と思っています。

だけど、もしコントロールできるとしたら、「努力」のもっと手前にある、「興味を持つ」という部分はコントロールできるんじゃないかなと、今の僕は思っています。

それも、「ほんの少しだけ、今の自分の中にあるよりもわずかに敢えて興味を持って、ちょっとだけでもやってみる」という興味です。「努力」と呼ぶ程でも無いかもしれないし、もしかしたらこれを「努力」と呼ぶのかもしれないけど、その判断が難しいくらいの、ほんのわずかな興味です。

もし、今の自分が、あの頃の自分に話をする機会をもらえたとしたら、そんな事を話すんじゃないかなあと思っています。

例えばこんな風に。


勉強は嫌いだし、頑張れないんだから無理して頑張る必要は無いけど、今の「普段のままの自分」でずっと生きていけば、もしかしたら学生の僕は死ぬまでその勉強するべき内容に興味を持てないかもしれないよ。もちろんそれでも良いのかもしれないけど。

幸か不幸か、僕はこの歳で勉強するべき内容に興味を持ったけど、そうじゃなかった可能性の方が高かったんだとは思ってるよ。

たまたま勉強をしている今の自分と過去の自分である学生時代の僕を比べてみて「何で勉強に興味を持ったのか?」と考えてみると、その違いってすごく僅かしかないような気がするんだ。

きっと、興味が湧かないのは「“それ”に自ら触れないから」なんじゃないかなと思うんだ。

だって、「勉強が出来ない」と自覚している過去の僕は、それを理由にして、「自ら触れないようにしている」でしょ?

「自ら触れる」をしないんだから、今の「何も知らないし何も分からない状態の自分」が“それ”について「自然に興味を持つ」なんて事が起きる訳は無いでしょう。“それ”について判断材料が無いんだから。

でも、学生である僕は明確に「勉強が嫌いだ」と感じている。

ここについてちょっと考えてみると何かがおかしい事に気が付くんじゃないかな?

“それ”について「何も知らないし分からない」のに「勉強が嫌いだ」って言っているんだ。

「何も知らない」し、「何も分からない」って言ってるのに、「勉強が嫌い」って言えるっておかしいよね。

そうなると「嫌い」なのは、“それ”という勉強するべき対象についてではなく、“勉強をする”という行為について「嫌い」って思ってるだけなのかもしれないなあと、今は思っているんだ。

“勉強”という行為を遠ざける為には、その対象になっている「学ぶべき事柄」すらも遠ざける必要がある。

もちろん、自覚的にこんな事を考えていたとしたらとてつも無く賢いはずなのでそれこそ“勉強”なんて楽々クリアしていたはずだからそんな事を自覚しているわけもないだろうけど、その「学ぶべき事柄」を遠ざけるから、ますます“勉強”が出来なくなり、ますます“勉強”が嫌いになり、結果、「自分は勉強が出来ないし苦手だから~」という事に自覚的になっていったんだと思うんだ。

だけど、学生の頃の僕の約30年後の今の僕は、あの頃嫌いだった「当時の学ぶべき事柄」とされていた内容に、自ら興味を持って「学び」に取り組めているのも事実なんだよね。

これも、最初は何の気なしに「ちょっと調べてみようかな」程度だった記憶があるんだ。誰かに強制されたわけじゃなくて。「やらなきゃいけない」とか「知らなきゃいけない」とかは少しも無い。あくまでも、自由。

逆に、「これくらい知らないと(大人として・社会人として・経営者として)恥ずかしいだろう」と思って学び始めた事は、今でも苦しくて仕方ないよ。そんな苦しい事の中から「面白い」に変わった事はほんの少ししか無いし、今の僕が学んでいる事のほとんどは「面白そうだから」と思って触れてみた事がほとんどなんだ。

ただ、その「面白そうだから」と思ったそれらのほとんどについて、「でも、時間無いしめんどくさいなあ」と思った事は、正直に言って、ある。疲れていたり、忙しかったりすると、興味があっても「めんどくさい」と思うし、何なら「興味無いから」と自分を誤魔化して手を着けないようにしようと思う事もあるし、そうしちゃう時だってある。

この歳になってもそういう事をしちゃうんだから、学生の時の僕がそうしちゃうのは本当に仕方のない事だろうね。

それでも、「絶対に今のままの自分でいたい」と思っていないなら、「今の自分よりも、もっとこうなりたいんだ」という想いがあるなら、「いつもの自分じゃなくて、“それ”に対してほんの少しの興味を持った自分」になって、「いつもの自分だったらやらないけど、ちょっとだけでもやってみる・触れてみる」を試してみてもいいんじゃないかな。

そしたら、きっと、今までよりも見えたり聞こえたり感じたりするモノが増えて来るだろうし、これまでよりも楽しくなる可能性が増えて来ると思うんだ。

そうなると、「知りたい」と思える事柄が、今よりどんどん増えていくからさ。

ほんのちょっと話をしようと思っただけなのに、つい話が長くなってしまうのは今の僕の課題だとは認識してるけど、どうしても伝えたくて時間を取らせちゃったね。

ただただ、「自分の人生は楽しい」と思える機会が増えてくれたら良いなと思っているんだ。

もしかしたら、「クソジジイが大きなお世話だよ」と感じているかもしれないし、事実、大きなお世話だったかもしれないとも思っているけど、「勉強ができない自分の事をあまり好きではない」と思っているあの頃の僕が「自分の人生は楽しくない」って思っていたのを、今の僕は知っているもんだから。歳を重ねてくると、おせっかいをしたくなる気持ちが出て来るんだ。大きな心で受け止めてくれると嬉しいよ。

それじゃあ、今日はこの辺で。

またね。



あかね

株式会社プロタゴワークス

https://www.protagoworks.com/


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