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見えているからこそ出会える、見ている階層と自分の立ち位置との関係

初めましての方、そしていつもご覧下さってる方、sanaのnoteに足を運んで下さり、ありがとうございます。皆さんが縁あるいつかの星に繋がる時のために、sanaの現場からの何かをころんとお届け出来たら、と思っています。


自分が見ている、そこに確かにあるもの、との出会い。

物質的なモノがそこにあるのを見て「ある」とする、ということは、多くの人の中で共有できるのが今日現在の地球社会だと思います。
当たり前ですね。
コーヒーカップがそこにある、目の前にあるから、それは「ある」と他者と共有可能なわけです。
この「共有できる状態が起きて」こそ、真実であるということにしているのが、モノの世界に生きている私たちという人間の常識的なモノの見方です。
言葉も社会的常識などもモノ化していく傾向にあるため、言葉の意味そのままを鵜呑みにする傾向が出て来やすいでしょう。
⇒①モノ、モノ化、常識的世界での見える世界でのものの見方の位置。
わかりやすいモノによっての判断、理解、獲得、成功を信じている位置。


無さそうに見えて確かにある、という状態を経験する場合もあります。
モノでは無くて、例えば「こころ」の方に興味がある方は、ちょっとピンとくるところもあるかもしれません。実際はそれそのものではありませんが、トレーニングの過程ではそういう感じで見ていくこともヒントになります。

「モノ」では無くて、かといって「こころ」では無くて、
ではいったい何を見ているのか?
sanaは、一体何を見ているのでしょうか?

例えば、モノの世界の「形」だけを見て判断をしていません。
「声」「言葉」「文字」も同じです。それのみを聞いたり読んだりして判断をしていません。

そこに見ているモノはあります。
ありありとそこにあるから、見ているのですが、その「ありありとある」という状態を共有できる状態の人とそうではない状態の人とが存在しています。日によってどちらかになるとかではなく、見ているものが比較的似ている者同士もいたりして、すると話が通じやすいでしょう。

モノでは無いという、その見ているモノってどこにあるの?
それは例えば、私たちの目の前に繰り広げられて行く「現実」と思っている中にです。
言葉と言葉の間に、行動と行動の間に、視線の元と先に、意味の無い様な行動との出会いの中に、自然の動きの中に、その人の無自覚な言動の中に、見上げた空に、吹く風に、揺れる花に、通りすがりの人の声に、一枚の写真との出会いの中に、虹と出会ったそのタイミングに、雷に、雨に、射仕込んだ光に、通り過ぎた動物に、行間に、空気中に、出されたお茶の一杯の向きに、と並べてみましたが、いかがでしょうか。

心当たりのある方もいらっしゃると思います。
「こころ」を発見しようとしている方は、今は「人の心の動き」に興味があって、価値を感じていて、出会おうとしている状態なのだと思います。
言葉になっていないその人の「こころの動き」というのは、言動の細かなところに表現されるので、その細かな動きや変化から、その人のそこにある生まれたての感情を探そう、出会おうとしていくという方もいらっしゃいます。モノや身体の動かし方、常識的な動きに見える言動のその奥に隠されてしまっている感情を発見しようとする視点を持とうとしていく人もいます。
こころの状態を聴こう、聴こう、としているのです。
その人の本意を見つけよう、発見しよう、気が付こう、としているのです。
この状態は「形あるモノ」ばかりを見ている状態の人から見ても、時に「なんかわからないけどスゴい」として認識出来る場合があります。自発的に気が付くというよりは何らかのきっかけで話を聞くような現場で、人のこと見てるなんてスゴいなぁ、という感想、経験になりやすいでしょう。
⇒②カタチに無い、見えない人間のこころを発見していこうとするものの見方。①のものの見方もできるし③のものの見方に可能性を感じる位置。


さらに次の段階として「モノの方」も「人の心の方」をどれかひとつだけに絞って見ることがなくなる、という状態も存在しています。
これが「形あるモノ」ばかりを見て「ある」としている人からすると、全く見えない形無き「モノの世界」になります。話を聞いたとしても、完全に理解出来ないなんだそれは? 謎状態のものとして出会うことになるでしょう。

その人は、物質的な「モノ」の世界も見ています。実際は、モノの世界ばかりを見ている人よりも、物質的なモノの世界をより詳しく見ていたりします。「こころ」の世界のことも見て様々を発見していきます。気付くのが早いでしょう。

さらに次の、もう一段階大きく内包しているもとのは何でしょうか?

それは「働き」です。あらゆるところに瞬時に発生するとある「働き」という意味を発見してそれを見ています。意味を受け取って、答えとして採用し、行動へと繋げていくでしょう。
対象は人間やの人間の心の動きではありません。
「人間」そのものではありません。その人、本人が意図していない動きから発生している働きというものを見ています。一人でいる時や複数間でも起きるものがあります。また、自然界とか人間以外であることも多いのが特徴です。
出会った「動き」から「働き」や「意味」をそこに発見します。時にそれは「生命体」でもあります。なので、異星人との出会いなどと呼ぶこともあるかもしれません。社会でのわかりやすいモノや形とはなっていないけれど、確かに在るものとの出会いです。現象は残ること無くやがて消えていきますが、意味が大きく強く自分の中に残ります。人生に大きな影響力を発揮するような力があります。
⇒③眼前、環境に起きる動きから「働き」という自分にとっての意味を発見していくものの見方。①②を内包し理解しているが、その影響を受けない位置。
(今回は観単にたとえば…のお話です。また詳しく書くことがあると思います)


今回は「エネルギー」「波動」というような言葉を使わずに、ごく日常の日々の中にあるものから書いてみました。「透視」「霊能」と言われてしまいやすいような「千里眼」的なモノを見る眼についてということでもあります。上の方にどんどん浮いていくばかりのような社会から解離していく精神世界ではなく、当たり前の生活とその日常の風景の中に宇宙の働きを見つけて、小さな自分から大きな自分まで広がっている自身に出会っていくこと。
そういう自分を「生きていく力」を発見したり育てていくお手伝いをさせていただいています。要するにそれが透視、だったりするのです。妖しい、怪しい力(Power)ではありません。

①②③のものの見方のどれかが強い、強すぎる、ということだったりするのが私たちでしょう。潜在的には①②③の3つを知っているのに、忘れているということなのだと思います。

だからこそ、どんな人も、本当は全てを知っている。こっきらこんとただただ忘却しているだけ。けれど忘れてしまうことで私たちは時に大きな「喪失感」を抱き続けて地上生活をしている場合もあって。
そこにも問題解決の道はあるんだよ、ということをお伝えしています。
①は②に内包され得るし、①と②は③に内包され得る。①ばかりで頑張って生きている場合もあるけれど本当にはより大きな世界に内包されているから孤独な①とかぼっちなんかでは無い。
けして①、②、③とそれぞれが別々にバラバラに関係無く存在しているわけではなくて、本来はすでに在る、ということだろうと。
今回はひとつのたとえ話から今までに無かった視点というものを想像してみて、それをイメージ、体験してみよう! ということでお届けしました。
生命の樹の階層、天体の意識、9分割理論という小難しそうなことについて、全く知らないという方にとって「そういう話なの?」「そういうこと考えたり見たりしてるの?」という入口になるかも、というお話です。

宇宙は今ここにある。今日も一杯の紅茶と香りをいただきながら。


あなただけのこの人生の物語を紐解いて歩きましょう。
昼の地球で、夜の宇宙で、丸ごと一日どうぞよい旅を。
cafe prizm sanaでした。

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