口いっぱいのスパシーバ
「どこか遠くに行きたいの」
彼女は、ため息とともに吐き出した。
電柱に凭れて空を仰ぐが、その視線の先には広がる青ばかり。
ほんの少し前まで、羽田空港へと向かう飛行機が一筋の白を残していった空。
今となっては、その光景も遠い昔のようだ。
そんなとき、僕は彼女を連れて近所の異国料理レストランをめぐる。
今日の気分は、そう冬の国・ロシア。
ロシア料理レストランに行こうじゃあないか。
メニューを開けば、見知らぬ単語がずらりと並ぶ。
戸惑いつつ、まずは前菜の盛り合わせを頼む。
目を突き刺すかのごとく鮮やかな赤が自己の存在を主張してきた。
これはビーツの酢漬けだろうか。
日本に生きる僕の語彙では表現しきれない風味が、口いっぱいに広がる。
これこそが、遡れば日本には存在しなかった味。
「毛皮のコートを着たニシン」と説明された、何とも洒落たサラダは俗に言う「インスタ映え」しそうな料理だ。
しかし口に入れると、見た目の華やかに反して口内で素材たちが踊り狂う。魚のにおい、それを包み込む酢の酸味、そして素材をまとめ上げる暴力的なマヨネーズ。
どれを食べても、自分の記憶にはない異文化の味だ。
僕らは食卓を囲むことで、地球上を巡り歩く。
世界を黙々と食べ、また一日生き長らえるのだ。
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