慣れは麻酔のように曖昧な味

君がおばあちゃんになったとき、どんな顔をしているんだろう。
僕には見られないのかな。

人間ドックの結果が書かれた紙を見たときに、そんな思いが最初にすーっと浮かんできた。

もし感覚を何か一つ失わないといけないとしたら何が嫌だろう。くだらない仮定の話だと知りながら、想像したことがある。僕は視覚だった。

でもそういうのって不思議とそうなるのが憎たらしい。最初に失うのは「見ること」になるかもしれない。神様はかなり天邪鬼だ。普段は祈りを捧げないし、存在を思うことすらないのに、こういう時だけ僕は神様のせいにする。

ぬいぐるみと保育園ごっこをしている娘はどんな人と結婚して、どんな花嫁になっているんだろう。鼻水を腕で拭いている時に目が合ってニッと笑ってごまかそうとする息子はどんな大人になっているんだろう。

いや、まだ精密検査だし。何かの間違いってこともある。
でも、”ただちに”病院へって書いてもある。
だけど、まだ見えてるし。自覚はないし。
でも、それは遺伝的なものらしく、心当たりもばっちりある。親がその病気になったとき、僕に謝った理由が、その気持ちが苦しいほどわかった。

いや、でも、だけど……楽観と不安が何度も入れ替わる。いや正確には、楽観を期待したい不安と純粋な将来への不安。苦笑するほど不安しかない。

好きな本も読めない。自由に書くこともできない。全力で走ることも怖くてできないんだろうし。そもそもどうやって働けばいい?

そこにある普通のもの。見慣れすぎて素通りしていた色と形。

名言らしく言われる「将来は光に満ち溢れている」的な言葉が好きじゃなかった。「将来」とか「光」とか、それらしい耳触りのいい言葉を並べただけの浅いフレーズに聞こえてた。
でも、あれは本当かもしれない。光って将来だな。目を閉じたって白く輝いている。平凡な日常に、すぐそこにあるモノに、光は満ち溢れている。見えるんだから目を逸らさないでよ。なんて贅沢な日々なんだろう。

アイスクリームを美味しそうに食べる娘を眺める。オムツいっちょで走り回る息子を見て微笑む。愛おしく流れて消えていく光景。どうか僕の瞼に焼きついてほしい。

せめて、これから見るものはキレイなものがいい。
誰かが悲しむ姿じゃなくて。

「なら、あなたのなかで私はずっと若くてきれいなままね」
病院から送られた紙を見て、少しの沈黙のあと、妻はおどけたようにいった。見えなくなっても僕と一緒にいるよって。

失明までのカウントダウンが鳴りだした。いやそれは生まれた時から鳴っていた。早いか遅いか程度の差……。

精密検査を受けた。これからずっと定期的な検査はいるが、どうやら僕の光はまだ大丈夫らしい。数日前にとりとめもなく吐き出すように書いた感傷的な文章が恥ずかしかったり、恥ずかしく感じられることに安堵したり。

でも、やっぱりそれは遅いか早いか程度の差。
カウントダウンははじまっている。それは僕の隣にいつもいる。

「おとう、見て。おとう、見て」
息子が何かを持って嬉しそうにこっちを見ている。

そう言えば息子は「おとう、見て」とよく言っている。

おとうはもう少し君の世界を見れそうだよ。

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