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最終戦争論…最終決戦戦争の果てに その1

書評⭐️⭐️⭐️⭐️💫

戦前の満州国樹立へと繋がる満州事変に深く関与した石原莞爾の著書です。公演をまとめて製本したもので公演内容と共に質疑応答が収められています。軍事思想家であった石原莞爾の思想が分かるもので、宗教への信仰によって信じられている最終戦争への彼の予感が、専門である軍事科学の観点から、具体的に考察されたものとなっています。本著では最終決戦戦争後の石原莞爾世界の統一に関する考えも述べられるため二回に分けて紹介します。

先ず戦争に二つの傾向がある事が述べられます。決戦戦争持久戦争です。武力の価値が他の手段に比べて高いほど戦争は男性的で力強く、決戦戦争の様相を示し、武力の価値がそれ以外の手段、即ち政治的手段に対して絶対的でなくなり、比較的価値が低くいなると、戦争は細く長く、女性的な持久戦争の様相を示します。軍事上から見た世界歴史は、決戦戦争の時代と持久戦争の時代が交互に現れたものとなります。

西洋における戦争の歴史を辿って行くと、兵器の発達や、社会制度などの文化的発達に伴って、戦争の性質やその戦術(隊形、指導単位、指導精神)が変化していきます。古代ーギリシア🇬🇷やローマ時代の戦争は国民皆兵で、多くの兵が密集隊隊形の大隊で方陣を作り、戦争は決戦戦争の色彩を帯びていました。幾何学的に見ればその方陣は点です。

ローマ帝国全盛では国民皆兵から傭兵となり戦争は持久戦争の様子を呈して来ますが、続く中世では軍事的組織が崩壊して、騎士の個人的戦争になり、それが長く続きます。しかし、続く近代で大きな革命が起こります。鉄砲の登場です。この時代は重商主義で戦争に傭兵を用いますが、傭兵の為に指揮は専制的になり、味方の被害を減じる為に隊形が横広くなってくる。中隊で動き、方陣的には実線です。横隊戦術は高度の訓練を要し、商売化した兵士は非常に高価な為に戦争は持久戦争の傾向が強くなります。

フランス革命以降、フランス🇫🇷では徴兵制度が実行され、兵の熟練度の劣化もあって、戦術も、前に散兵を出して射撃させ、その後方に縦隊を配置する散兵戦術が取られます。指揮は比較的に自由となり、小隊で動き方陣は点線です。そして軍略家ナポレオンが登場し、戦争は決戦戦争の様相を呈して来ます。

第一次欧州戦争では戦争は持久戦争に変わっていきます。兵器の非常な発達がそれを後押ししました。自動火器-機関銃は極めて防御に適当な兵器です。だから簡単には正面が抜けない。また国民皆兵で、男は皆んな戦争に出るため、大兵力となりそれで正面が抜けないとなります。この様に兵器の進歩と兵力の増加によって、決戦戦争から持久戦争に変っていきました。砲兵力の進歩が敵散兵線の突破を容易にするので、防者は数段の敵の攻撃を支える数線陣地となりましたが、各個敵に撃破される可能性があるため、自然に面式の縦深防御の新方式が生まれました。すなわち、小隊で動き、方陣的には面です。この場合、各兵、各部隊の自由に任せて置いては混乱に陥るから、指揮には統制が必要となります。統制は、各部隊、各兵の自主的、積極的、独断活動を可能にするため目標を指示し、混乱と重複を避けるために必要な統制を加えます。

続く、第二次欧州大戦ではドイツの電撃作戦がポーランド、ノルウエーの様な弱小国に対し決戦戦争を強行し、フランスに対しても決戦戦争を遂行したのですが、これは連合側の物心両面における甚だしい劣勢が必然的に招いた結果であって、空軍の大進歩、戦車の進歩があるものの、十分の戦備と決心を以って戦う敵戦の突破は至難で、未だ持久戦争の時代と考察されるようです。

さらに石原莞爾は、彼の生きた当時の持久戦争の時代から、続く戦争発達の極限に至る最終決戦戦争の時代に移る事を予想します。次の戦闘群の戦法は面から三次元の体に移り、小さくなっていく戦闘単位は個人になる。また、次の戦争では男ばかりでは無く老若男女全てが、戦争に参加する。単位が個人で量は国民という事は、国民の持っている戦争力を全部最大限に使う事を意味します。

戦争には敵を撃つことと、損害に対して我慢することの二つの側面がありますが、敵を撃つものは少数の優れた軍隊でも、我慢しなければならないものは全国民となります。そして、この最終戦争においては戦争のやり方は空軍によるものであり、決戦は空軍によると言っても良く、空中戦の優者が戦争を左右し、空中戦の勝負は小型戦闘機で決せられるため、戦闘単位は個人となります。飛行機は無着陸で世界をぐるぐると回り、破壊兵器は敵国の首都や主要都市を徹底的に破壊する。この様な決戦兵器を創造して、この惨状にどこまでも堪え得るものが最後の優者となる、それが最終決戦戦争です。

この考察を決定する大きな要因は、未来における兵器の非常に劇的な進化の予想にあるようです。特に飛行機は非常な決戦兵器であるとされます。成層圏を自由自在に駆け抜ける驚異的航空機、それに搭載される敵国の中枢を破壊する革命的兵器、一発当たると何万人もがぺちゃんこにやられるところの革命的兵器は、あらゆる防御手段を無効にして、決戦戦争の徹底を果たし、最終決戦戦争を可能とすると述べます。また殺人光線や殺人電波等の新兵器が数千、数万メートルの距離の猛威を振るったならば、航空機の優位性はなくなるとも述べます。

これらを現代や先の太平洋戦争(大東亜戦争)に照らして考えると、先の大戦では航空機が戦闘の中心になっており、長期には持久戦争の様相を呈しながらも要所要所で決戦戦争が繰り広げられたのではないかと思います。またアメリカによる原爆の使用等、最終決戦戦争で使われるべき兵器が使われ時代の最終決戦戦争に至る予兆が見て取れます。現代は石原莞爾の時代よりさらに科学技術や兵器が進化し、戦闘が行われる場所も陸海空の次元から、宇宙空間やサイバー空間へと拡大しています。またミサイル兵器の発達で数千、数万キロを容易に飛行する兵器も実現し、核弾頭などの大破壊を引き起こす兵器の発達も極限近くに達しています。航空機の最終決戦戦争への優位性は未だあるもののそればかりが主では無さそうです。核兵器の如き、大破壊が引き起こす兵器が使わる戦争こそが最終決戦戦争だと思われますが、一方、大破壊をもたらす核の様な兵器は使われない兵器とも言われています。被害が大きすぎて報復による互いの使用に耐えうる事ができないのがその理由です。

また石原莞爾は、「人類の歴史あって以来、戦争は絶えた事が無く、人類の闘争心は人類のある限り無くならない。政治経済等に関する現実問題は、単なる道義観や理論のみで争いを決する事は、通常至難であり、それは人類の本性であり、世界統一の様な人類の最大問題の解決は、人類の力を集中した真剣な闘争の結果、神の審判を受ける外にない。」と述べます。その神の審判を受ける決戦こそが最終決戦戦争であり、そして、その決戦戦争を「武道大会に両方の選士が出てきて」勝敗を争うものと述べます。それは人間の本性を理想無く見つめたリアリストの導いた答えであったと思われ、それはたとえ「恐るべき大破壊や惨虐」をもたらすものであっても、スポーツで決せされる勝敗の様なものであると言う考えに至っています。主に戦前に活躍した人物でありますが、その先見の明から得られる言葉は、現代にも問いを投げかけるものと思いました。

(了)
















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