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私が見たい映画を一緒にみよう


「ねぇ、映画でも見ようよ。何が見たい?」



これは、難問です。


まず、何が見たい?と聞いてきた相手の好みのジャンルを考える。ホラーとかグロテスクなものは、いくら相手の好みでも無理だけど。それと、今の季節とか時間帯、この部屋の空気感に合いそうなもの、、、

でも、相手にとって面白くなかったらどうしよう。気まずいな。相手がつまらなかったら申し訳ないし。約2時間、それに費やすんだから。

映画を調べてるフリをして、レビューまで隈なくチェック。

これなら、好きかな?面白そうだし。えー、でもな。どうかな。大丈夫かな。あ、3つくらい候補出そっか。


こんな風に、決まらない。決められない。



ワーキングホリデーでメルボルンに滞在していた時、オーストラリア人の姉妹と仲が良かったのですが、その日も彼女たちのお家に遊びに行きました。

お家に着くと、そこには初めましてのコロンビア人の男の子もいて、これから日本の映画を見よう!とみんなが盛り上がっているところでした。


そして早速始まった映画は、アニメ映画でした。絵のタッチも、内容も、正直言って、私が苦手な類のものでした。

私は、絵のタッチによっては、アニメ映像が怖いと感じてしまうことがあります。

それ言うとやばい人だと思われるから誰にも言わない方がいいよ。と妹にアドバイスを受けたことがありますが、言いますね。

私は、アニメの怒りの表情や哀しみの表情に、リアルな人間以上の感情とか魂が感じられて。何というか、直視できません。

これは余談ですが、英語の勉強をしている際、アニメーターという言葉は「命や魂を吹き込む人」という意味があることを知りました。となると、私の感じ方もやばい訳ではないのでは?と思ったりもします。


話が逸れましたが、とにかくみんなはアニメ映画の流れるその画面に集中していて。ましてや初めましての人もいる場で、私はこの映画が苦手だなんて言い出せるはずもなく。

早く終わらないかなと思いながら、約2時間。ちゃんと見ていなきゃ、後で感想を聞かれた時に、答えられないし。

でも、苦手なものを見るって、結構しんどくて。すっかり疲れてしまって。これが終わったら、もう帰ろうかな。どんな理由なら、変だと思われないかな。途中から、そう考えながらその場に居ました。


映画が終わり、「どう思った?」 やはり、きました。この質問。

凄く良かった!とか、思ってもいないことはどうしても言えない人間なので、「こういうメッセージが込められているのかなと思ったよ。」そんな感じの感想を述べました。

みんなも、あんなに集中していたけれど、称賛している感じはありませんでした。それから少し紅茶を飲みながら談笑していました。

何か違う映画見る?という流れになり始めて、とにかく疲れ果ててしまった私は、「もう帰らなきゃ!電話の約束があるから。」そんな嘘をつきました。

時々、私は本当に電話の約束がありました。言語交換の電話や、日本の友達とのZOOMなど。でもやっぱり、無理があったみたい。


「え〜、まだ来たばかりなのに?嘘ついてない?」と笑いながら、妹さん。

「もしかして映画が嫌だった?次はあなたが見たいものを見ようよ!」と、お姉ちゃん。


あぁ、見破られてる。

情けなくて、申し訳なくて。

でもここで、はい、嘘です。なんて、もっと言えるはずもなくて。自分の為についてしまった嘘は、何としても自分だけで抱えなきゃなりません。

「そんなんじゃないよ!本当に、本当に約束があるから。ね、また来週、遊びに来てもいい?」そう伝えて、その日はバイバイをしました。

言い訳っぽく聞こえるかもしれませんが、また来週も会いたい気持ちは、本物でした。



帰り道、俯きながら、とぼとぼ歩きました。

とことん、自分が嫌になりました。

最低。情けない。恥ずかしい。


私はどこかで、彼女たちが私の嘘を見破れないと思っていたんですよね。だから嘘をついた。

それってつまり、彼女たちのことを軽視していたということです。

この映画は苦手だから他のものを一緒に見たい。私がそう伝えたところで、気分を悪くするような人たちではないことは十分に分かっていたはずなのに。

私の嘘を、見破ってくれる人たち。私の気持ちを尊重してくれる人たち。そんな人たちに、私は嘘をついた。

大好きなのに。大切なのに。


これまで、自分の気持ちを隠せば、自分さえ我慢すれば、それでいいと思うことが多い日々でした。学校でも、職場でも、家でも、どこでも。その場の空気が壊れないこと、相手が嫌な気持ちにならないことが、重要でした。

それは、「相手のために」そういう思いやりの場合もあれば、「誰かに嫌われないために」そうやって自分を守る故の場合もありました。

自分以外の誰かが我慢すると苦しくなるのは、自分なんです。その場の空気が悪くなるとしんどくなるのは、自分なんです。誰かに嫌われるのが怖い。誰ともぶつかりたくない。だから、自分だけが我慢する方が、最終的には楽で。私にとってその選択は、妥協のようなものでした。


それなのに、いつも、心のどこかに被害者意識があったこと。それも、自分で分かっていました。その選択肢を選んだのは自分なのに、まるで悲劇のヒロイン気取りだなって、自分を俯瞰していました。

妥協で自分にとって楽なことを選ぶことは、自分を大切にすることとは違います。自分を大切に出来ていないことにすら気付けていなかった私は、ただただ、そんな自分のことが嫌でした。

誰にも嫌われないように生きる自分を嫌っていたのは、他でもない自分自身でした。


私は、見たい映画を聞かれれば、相手が見たそうな映画を選ぶのに必死でした。食べたいものを聞かれれば、相手が好きなものや、その場に相応しいであろうものを考えて、候補をいくつかあげていました。

でも相手は、”私が見たい映画”を見よう。と、言ってくれているんです。”私が好きなもの”を食べよう。と、選択の機会を与えてくれているのです。


そっか。私はこれまで、私の気持ちを大切にしようとしてくれている相手の気持ちを、大切にできていなかった。

そんなことにようやく気付きました。こんなにも、時間がかかっちゃったけど。


自分のことを大切に出来ないと、相手のことも大切に出来ない。


あぁ、本当にそうなんだなって、心の底から思いました。そう思わせてもらった経験でした。


自分のしたいこと、自分の食べたいもの、自分の見たい映画。やっぱり即答することは難しいし、相手に合わせることが多いけれど。

せめて、自分の大切な人くらいは大切に出来るように、自分のことを大切にして生きたい。

今の私は、そんな風に思っています。


彼女たちとは、今でも時々連絡を取り合います。ワーキングホリデー最後の夜も一緒に過ごして、出発の日の朝も、お見送りをしてくれました。こうして記事を書いていると、無性に会いたくなってきました。

また、会いたいなぁ。

今度会えた時は、私が見たい映画を、一緒に見たいなと思います。


じっくり読んでいただけて、何か感じるものがあったのなら嬉しいです^^