【短編小説】 月でふたりきりで暮らすイメージ
レストランを出たあと、わたしたちは並んで歩いた。夜風が心地良かった。駅まで続くけやき通りを、駅とは反対の方へ向かいながらゆっくりと歩いた。
「今夜はなんだか、わたしが自分の話ばかりしてしまったような気がする」とわたしは言った。「あなたの話を、もっと聞けばよかった」
あなたはそれに対してなにも答えなかった。ただ、軽く微笑んで応えただけだった。
そして随分と沈黙の時間が流れた。けやき通りを行き交う車は一台か二台くらい。「みんな月にでも行ってしまったのかも」とわたしはつぶやいた。
「それじゃあ」とあなたは言った。「僕の話をしてみようか」
わたしは頷いた。けど、あなたはなかなか喋り始めなかった。ふたりでまっすぐ前を見つめながら通りを歩いた。なかなか喋り始めないから、わたしは、あなたが喋るのをやめてしまったんじゃないかと思った。そのあいだずっと沈黙の時間が流れていた。わたしは誰かと一緒にいるときにだんまりとした時間が流れだすとついつい気まずい思いをしてしまうんだけど、ふしぎとあなたと一緒にいるときは、気まずくならなかった。居心地がいいとさえ感じていた。だから、このままあなたがなにも喋らなくても構わないって思っていた。
「僕はよくこんなことを考えるんだ。僕は寝室で眠っている。
でもその寝室っていうのは僕がふだん眠っている場所とは異なるところなんだ。なぜだろう、僕が頭のなかでこのイメージを膨らませるときには、僕の体は見知らぬ寝室に寝かされているんだ。外からクラクションの音が聞こえてくる。僕はそれで目を覚ます。深い深い眠りから覚めた僕はポーチの明かりを点けて、玄関の扉を開ける。すると一台のアメ車が停まっているだね。アメ車の運転席にいる人物が開けた窓から声を出して、僕に向かってこう言うんだ。
「事情があってここにはいられなくなってしまった。今から月に移り住もうと思っている。一緒に来てくれないか?」
細かいニュアンスはまちまちなのだけれど、だいたいそんなふうに誘われる。僕はパジャマ姿のまま立ち尽くす。月と地球はそう簡単に行き来することができるわけではない。だから、いったん月に行けば地球にはほとんど戻ってこれないと考えるのが正しい。僕は、今の暮らしに未練があるわけではない。でも、今の暮らしをさっぱり捨ててしまいたいとも思っていない。僕がアメ車に乗りこむかどうかは、結局のところ、僕のことを誘ってくれている人が誰かに寄るのだろう。そして僕はいつも考えるんだ。僕は、誰とだったら月へ行ってふたりきりで暮らすことができるだろう? って」
そう言ってあなたは踵を返した。わたしたちはもと来た道を通って、今度は駅へと向かって歩きだした。駅にたどり着くまで、ふたりともなにも喋らなかった。その間わたしはずっと考えていたのだ。わたしは、誰とだったら月へ行ってふたりきりで暮らすことができるだろう? って。
けやき通りの始点である駅の西口に着いたとき、
「それじゃあ」
とわたしは言って右手を振った。
あなたも同じく右手を振った。
このまま別れてしまうのが惜しいと思った。それはべつに恋とか愛とかそういう類のものではなく、あなたへの興味が、あなたとの別れを惜しんでいた。
いいや、もしかすると、それは広義には「愛」であるのかもしれない。わたしはあなたのことをもっと知りたい、と思った。他人に対して興味や関心を抱くこと——それは十分、「愛」なのかもしれない。そんなふうに考えるとわたしは戸惑った。わたしは、今目の前にいるあなたのことが好きだ、と思った。そしてこの気持ちは、「恋」の感情とよく似ていた。長いあいだ忘れかけていた「恋」の感情と、ほとんど酷似していた。
「あなたの、月に関するお話を聞いて、わたしは、あなたのことをもっと知りたいって思った」とわたしは正直な気持ちを伝えた。
「月の話を先にしてくれたのは〇〇さんのほうだよ」
「考えてみれば、確かにそうだけれど……」とわたしは言った。わたしは自然に目をあわせることができなくなっていた。わたしの視線は笑っちゃうくらい虚ろだった。「また会えるかな?」わたしは短く息を飲んだ。「また会えたときには、あなたのすてきな話をもっと聞かせてほしい」
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