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目的が邪魔だ

「宮澤さんはもっと目的のある会話をするように心掛けたほうがいいですよ」

と説教をされたことを思いだした。2、3回会って軽く話しただけなのに、最後に直接対面したときにそうやって説教をされた。いや、2、3回会って軽く話しただけだからこそ、かれはいきなり説教を垂れてきたのだと思う。

僕は思った。どうしてかれから教えを受けなければならないのだろう。僕にはさっぱりわからなかった。僕たちは再び会うことになるかもしれない。しかし僕たちは、お互いに自発的に会おうとはしないだろう。そういう意味で、僕たちが会うのは——本当の意味で「会う」のは——あのときが最後だったんだと思う。

かれの唐突な説教から始まった一連の応酬は両者の決裂を明確にし、お互いがお互いに対しておこなう最後通告みたいなものだったんだろう。今となってはそんなふうに思う。

「僕は、目的のない会話、つまりおしゃべりの類をもっと楽しみたい。おしゃべりの場を設けたいと思うんです」

僕の意見に対して、かれはなにも述べようとしなかった。僕が、目的を持って会話を進めていくことをひどく不得手にしているように、目的のない会話——おしゃべり——を不得手にしている人も相当多い。目的のない会話を不得手にする人々は無言をひどく嫌う傾向がある(ように思う。少なくとも、僕は長年の観察を経て、そのように結論づけている)。そして無理にでも会話を生みだそうとする。会話に目的を設定しようとしてくる。

そういう状況に居あわせるたびに、僕は、そんなに無理に話そうとしなくたっていいじゃないか、と思う。もちろん、思うだけで口には出さない。

言葉は意志伝達のための道具である。そのことに異議を唱えるつもりはない。けれど、意志伝達のための道具は言葉だけではない。

と僕は思う。強く思っている。それは「思う」というよりも「信じる」という表現により近い。だから僕は演劇をつくる際に「沈黙——喋らない時間」を大切にしているんだと思う。

人と人が一緒にいる。一緒の空間に居あわせて、一緒の時間を過ごすだけで十分なのだ。同じものを食べるだけで僕たちはなにかを分かちあうだろうし、同じものを目にしたり耳にしたりするだけで僕たちはなにかを分かりあうだろう。むしろ、言葉による説明が齟齬を生みかねない。

「私はこう思う」。「あなたのこの意見についてはおおむね賛成だが、一点だけ私の考えかたと異なるところがある」。こういうやりとりが僕たちの社会に分断を招いてしまっている、ということに無自覚な人がかなり多い、と思う。

分断解消のために対話を推進するようなスローガンがちまたには溢れかえっているけれど、前述の通り、対話で分断が解決されることはほとんどない。なによりも大切なことは聞くこと。聞いて、受け容れること。こだわり過ぎないこと。自分という存在に執着し過ぎないこと。「自分」と「他者」のあいだに線を引かないこと。「自分」なんてものはないし、「他者」なんてものもない。もっと流されるように生きてもいい。こうした生きかたをするうえでは「目的」はただの邪魔だ。


今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。