見出し画像

今、僕は実験的なものをつくっていくことよりも、どれだけ魅力的な物語をつむいでいくことができるか、ということに強い関心を抱いている

シャワーを浴びてからフライパンで餃子を焼いた。「油も水も要らない!」と堂々たる文字でパッケージに書かれていたので、僕はその通りにした。フライパンに並べて、IHコンロの電源を点けた。冷蔵庫の扉に磁力で張りついているキッチンタイマーを5分にセットして、そのあいだに僕は生野菜につけて食べるためのソースを仕込んでいた。テーブルに食器を並べているところで、タイマーが鳴った。僕はキッチンに入って餃子の様子を見にいく。もう少し焼いたほうがよさそうだ。キッチンタイマーをもう1分後にセットした。そのあいだに、スクリーンの準備をした。プロジェクターがまばゆい光を放って映画のワンシーンが映し出される。一時停止されたまま動かない。音声はソニーのスピーカーから出力する。これで立派なホームシアターが完成する。

今度はキッチンタイマーが鳴る前に餃子の様子を見にいった。餃子はいい加減に焼けているみたいだった。冷凍庫から発泡酒を取り出した。タブレットを数回タップすると、映画が再生され始めた。

この日観ていたのは『仮面ライダー BLACK SUN』だった。ここのところ、ずっとこれを観ている。こんなにクオリティの高い脚本や演技を、月額たった数百円のサブスクリプションで観れてしまって本当にいいのだろうかと不安になる。これはいったいどういう仕組みになっているのだろうかと。脚本家や出演者の収入はどれくらいのものなのだろうかと。……僕が心配することでもないのかもしれないが。結局のところ、どれだけ成り上がっていったところで、十分な収入を期待できるわけではない。この業界にいる限りは。

第五話を観終えたところで、ちょうど恋人が帰ってきた。ストーリーは現在と過去とを反復しながら進んでいく。その反復運動を繰り返すたびに登場人物同士の人間関係が紐解かれていく。この手法自体はたいしてめずらしいわけでもない。よくある手法と言えば、よくある手法だ。それはひとつの、ストーリーテリングのための型のようなものだ。

僕には手法を考える際にその意味と効果を深く考え過ぎる癖がある。だから、『仮面ライダーBLACK SUN』で言えば、現在と過去とを反復してストーリーが進んでいくことに必然性を見出そうとしている。必然性が見出されなければ、反復する意味はないし、効果はたんなるエキサイティングさだけ、ということになってしまう。それでは薄っぺらいじゃないか。だから手法には意味と効果がかならず必要だ。

と僕は思っていた。しかしそんなこともないのだ。それはある種の型として割り切ってしまってもいいのだ。たんなるエキサイティングさにかまけてしまってもいいのだ。

正直言って、僕はひとりで感動していた。感服していたという表現のほうがより近いだろうか。これっくらい骨太なストーリーをつくってみるのも愉しいだろうなと思った。今、僕は実験的なものをつくっていくことよりも、どれだけ魅力的な物語をつむいでいくことができるか、ということに強い関心を抱いている。

ベッドに入っても興奮の熱は冷めやらなかった。早く続きを観たいと思った。寝不足が続いているくせに、睡魔は僕のところになかなか訪れてくれなかった。あるいは、睡魔の訪問に僕はまったく気づかないでいたのかもしれない。起き上がって水を1杯飲もう。スマートフォンを見る。SNSを見る。2、3回会ったことのある人の投稿が僕のところにも届いた。2、3回会って軽く話しただけなのに、最後に直接対面したときに説教をされた。どうしてかれから教えを受けなければならないのか、僕にはさっぱりわからなかった。

僕たちは再び会うことになるかもしれない。しかし僕たちは絶対に友達にはなれないだろう。そもそも誰かと友達みたいな関係性になることを、君は望んでいないだろう。そして僕は詩を書くはめになった。深夜に書かれる詩は最悪だ。深夜に書かれる詩。それはラテン語で「悪魔の子供」を意味する。

燃え尽きたっていいじゃないか
一生懸命はうつくしいじゃないか
流す涙と流れる汗に敵うものはないじゃないか
ひとつひとつの作品や
日々の生活に意識的にピリオドを打ったっていいじゃないか
ピリオドを打っても
命は続いていくじゃないか
熱く生きたいじゃないか

まさに「悪魔の子供」。僕は自分のことを「悪魔的だ」と思うことがたまにある。しかし僕には悪魔になりきることなんて到底できっこない。できたとして、「悪魔の子供」くらいだろう。そう、「悪魔の子供」とは僕のことだ。深夜に書かれる詩がラテン語で「悪魔の子供」を意味しているなんて嘘っぱちだ。


今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。