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「イメージの言語」


 インタビューを何件かさせてもらって気づいたことがある。どのような手続きで言葉が口をつくのかにはその人その人の特徴があるということだ。当たり前のことといえば当たり前のことであるかもしれない、けど人と人とがわかりあうにはその「手続き」の方法の類型がひじょうに重要になってくると思うのだ。「この人だから話しやすい/話しにくい」という感覚的な判断はそのようなこと(どのような手続きで言葉が口をつくのか)を基準にジャッジされているのではないか——つまり、私たちは感覚的に(無意識の領域で)わりとシビアに他者を量っているのではないか。



 ここで語っていることも、これから語るであろうことも、たんに僕のイメージに過ぎない。それは僕の仮説であるかもしれないし結論であるかもしれない。仮説でありながら結論でもあるような言葉づかいをすることは可能だ、僕はそれを「イメージの言語」と呼びたい。



「僕はイメージの言葉でしか喋ることができないんだ」



 とバスのなか、僕は言った。その直前に、ある画家が大きなカンヴァスに描きこむ様子を目の当たりにしたばかりだった。画家が描く様子は「運動」と批評されていた。実際に見てみるとまさにその通りだった。「運動」。

「いちについて」で対象を観察し、「よーい」でカンヴァスを見据え、「ドン」でカンヴァスに歩み寄り、ゴールテープを切るかわりに筆を入れるのだ。

 描くのを見せてもらってまもなく、決定的な色が画面に足されたのを目撃し、背骨に電撃が走った。

「その一筆は……」

 と口には出さずに、言葉を、大切に胸のうちにしまった。僕だけがわかっていればいいし、事実確認なんてべつに不用だ。その一筆は、確かに決定的だったのだから。



 言葉にしなければ伝わらない、と考えるのは演劇人の悪い癖だと思う。そんな、いちいち伝える必要なんてないじゃないか。自分のためだけの言葉(想念)があったっていいじゃないか。そこが集団創作者と個人創作者の決定的な違いであるはずだ。

 2日目の滞在では伊香保の温泉に入湯した。ぬくぬくと体の芯まで温まったところによく冷えたビールを流しこむのはとても気持ちがいい。湯に浸っているあいだだけ、人は胎児に戻れる。

 ビールはそんな幻想を醒ますための冷や水であるかもしれない。

 1日目はレジデンスの浴槽に湯を張った。棺桶のかたちをしたその大きな浴槽に少なめの湯を入れてほとんど寝転ぶみたいに浸っていたら擬似的に死んでいるみたい、って思った。擬似的な死——とは、よくSF映画の宇宙船内で描かれるような人間を「冬眠状態」にするようなポット、僕はそこに寝転んでいる。

「眠っているときにみる夢と、小説や戯曲のなかで具現化される自分のイメージと、現実世界での体験がたまに混ぜこぜになって困惑してしまうようなことがあるんです」

 棺桶のある小さな部屋の前で語った、その夜は日本酒を飲み過ぎたせいか、目をつぶって布団に身を横たえると泥のなかに頭から埋もれていくような感覚を体験した。あまり不快な感覚ではなかった。泥は、人肌に温かく、僕はどこかで埋もれるのを愉しんでいた。埋もれれば、埋もれるほどに、眠り、に近づいていくみたいだった。

 どこからが夢で、どこまでが自分の想像なのかがわからない。次に浮かんだ像は建築物の高層階から低層階までを舐めるように眺めみるような映像だった。しかしどこまで低層に下りても、いっこうに地面にたどり着かなかったのが奇妙だった。それはどこかで確かに見たはずの情景で、今も強い印象が残っている、にも関わらず、どうしてもそれがどこであったかを思いだすことができない情景の数々、そのうちのひとつだった。


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