会話が下手な自分が,でも,下手なりに会話をしたい,とは思っていて,会話が下手な自分が会話をするための方法——それが「聞くこと」.
滞在制作の初日、1日目が終わろうとしている。今朝は前橋に9時に着くために午前5時の電車に乗った。前日、前々日ともに十分な睡眠をとっていたせいか、緊張と高揚のせいか、うまく眠ることができずに何度も目を覚ました。4時に起きる予定が、3時には完全に目覚めてしまってそこからなんやかや、準備をした。
余裕を持って家を出た。電車に乗る前にコンビニに寄って、ホットコーヒーを買うための時間もあった。そのくせに2 weekコンタクトのケースだけを持って、肝心のレンズを持っていない! ことに気づいたのは高崎駅での乗り換え時にケースを開けたとき。なかにはなにも入っていなくてびっくりしたし、一番忘れてはいけないものを忘れてしまったかもしれないと焦った。保険で持っていた1 dayコンタクトを——いけないとわかっていながらも——洗浄液で洗って明日もつかう。さっそく今夜左目のレンズが割れてしまった。残り3枚。あと4日。もつかもたないか。もたなければ、めがねで過ごすよりほかない。
このようなどうでもいいこと——しかし僕にとってはどうでもよくない出来事——を文章にしたためておく、この営みがいつまで継続できるかはわからない。
たまたま滞在の1日目が、体力と時間に余裕があるから、こんなふうに書きものをすることが、できているのかもしれない。でも、僕にとって、出来事を文章にしてアウトプットすることは、自分の頭のなかを整理するために、ひじょうに重要なことなのだ、とりわけパロールにしてアウトプットできない僕については、エクリチュールで、アウトプットするしかないのだ。
孤独が一番の友だ。僕の孤独を支えてくれるもの、本、音楽、ペンと紙(あるいはiMac)、そして1杯のウイスキー。
時折、自分が書きものをするするこの机だけが、世界で唯一の水平な場所なんじゃないかと考えられてしまう。
僕は散歩をし、友達と話し、黙し、初めて会う人の話を聞き、インタビューをする。
いつも考えが、あらぬ方向へと飛んでいきそうになる。
あらぬ方向へ飛躍してしまったその考えは「喋る」のではなく、「書き留めて」おいておけたらどれだけすてきだろうと思いを馳せる。今、目の前に水平なデスクがあったらいいのに、と思う。思ってから、いけない、今は、現実に目の前で起こっていることに集中しなくては、と自分を引き戻す。
人と過ごす時間のなかで、多くのことをインストールしている。インストールしているあいだ、アウトプットをすることはできない。だから僕は会話がへたなのだろう。でも、へたなりに会話をしたい、と思っていて、へたな自分が会話をするための方法——それが「聞くこと」なのだ。
聞いているときに、私になにが起こっているのか。それは純粋なインストールだ。他者を受け容れようとする気概がなければ「聞くこと」は虚しい。
会話は、その場その時の自分の反応によって、楽しいものになるか、嬉しいものになるか、それともそうでなくなるかが左右される。そのような会話のランダム性——行き着く先のわからなさ——も愉しみのひとつであるかもしれない。しかし、人は会話をするとき——とりわけ自分が喋ろうとするとき(実際に喋ったか喋っていないかはここではどうでもいい、問題は喋ろうとするということだ)、つねに自分と向きあっている。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。