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noteにはまっているのかもしれないような気がしないでもない

もともとは、友人がnoteを始めたと聞き、それを読むためだけに、noteのアカウントを作った。それまでは、noteなんて聞いたこともなかった。だから、アカウント名もpoohだなんて、適当につけた。

それが今や、その友人よりも私の方がnote生活を楽しんでいる気がする。アカウントを作ってからしばらくして、思いつきで自分でもnoteを書いてみることにした。仕事でやっている医薬翻訳の練習のために、論文の要約(アブストラクト)を和訳してそれを載せる、という誰のためにもならない、完全に自己満だろ、と思う記事を書いている。

そして、自分でnoteを書くよりも楽しんでいるのが、他の人のnoteを読むこと。「note?なにそれ?」と思っていた自分が、嬉々として、他の人のnoteにスキをつけ、たまにコメントなんてしている。

しかし、そもそも私は、SNSというものがどうにも苦手だったのだ。以前、仕事で仕方なく、HP、ブログ、Twitter、Facebookなどを日々更新していた時があった。その仕事を辞めて、何がうれしいって、もうSNSをしないでいいこと、発信をしないでいいこと、だった。

そんな私がなぜ、まだ数カ月だけれどnoteを続けられているのか。楽しいと感じているのか。それを考えたときに、思い出したのが、西村創一朗さんの著書『複業の教科書』に書かれていたこと。

noteやTwitterは、個人的なつながりの「血縁・地縁・社縁」ではなく、価値観でつながる「知縁」がメインのコミュニケーションツールである。発言した本人の属性よりも、発言の内容そのものの面白さや独自性でどんどん拡散していく、という内容。

そうか、だからSNSがどうにもしんどい、と思っていた自分も、noteでは違和感を感じず続けていられるのかもしれない、とストンと腹に落ちた。

ちなみに、noteのスキ押し活動、コメント活動(こういう言い方をするのかどうかは知らない)での醍醐味は、すでに大量のスキやフォロワーを獲得している人のnoteよりも(もちろんそういう人たちのnoteは、支持を集めているだけあって、大変良質なものが多いし、私もスキを押す)、「え~、こんなにいい記事書いてるのに、まだスキついてないの?フォロワーまだ2人??もったいな。」というようなnoteを見つけてスキすること、だと勝手に思っている。「宝探し」のような感覚なのかもしれない。

今後も、楽しんで続けられるよう、つかず離れずの距離感で、noteとつきあっていこうと思う。

たぶんこのnoteに興味を持って読んでくれた方は、私が普段書いているnoteにはまず興味が湧かないと思うけれど、一応載せておきます。

医薬系論文のデータベース『PubMed』で、キーワードをアルファベット順に検索して翻訳したら、26個書けるやん、と思いついて始めたnote。↓

仕事が来なくて暇なときに、ただ勉強するのもモチベーションが上がらない、と考えていた時に思いついたので、公にする意味があるのか、と今も謎。

飽き性の私が、上のシリーズで何個かnoteを書いているうちに、違うことがしたくなって始めたシリーズ。↓

しかし、発見者の名前を疾患名につけるのは、医学生、薬学生の悩みの種ではないか、と思う。名前を聞いても、全く病態が思い浮かばない。

これまで避けてきたけれど、長期戦は確実だし、そろそろ向き合わないと、と思って始めた(遅い)、↓のシリーズ。

また飽きて他のシリーズを始めるかもしれないけれど、まだ一つもアルファベットのZまで到達していないことに気づく。こんな感じで、永遠に続くのかもしれない。

---------------------------------------------------------------------------------(2020/9/3追記)

案の定、他のシリーズ始めました(笑)
ひとのnoteを勝手におススメする『My Favorite note』シリーズです。
やっぱり note はまってます。

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