逃げ恥は「ムズキュン」であってフェミニズムやポリコレではないというお話

「逃げ恥新春スペシャルがフェミっぽくて嫌いだ」とか「逃げ恥新春スペシャルはフェミニズムだから素晴らしい」という意見が散見される一方で、「逃げ恥は別にフェミでもポリコレでもないよ」という論考が見当たらなかったので、一応まとめておく。

「逃げ恥はフェミニズムだ」という人は逃げ恥もわかっていなければフェミニズムもわかっていないし、仮に製作者があの脚本と演出にフェミニズムを仕込もうとしているとしたら製作者ですら逃げ恥もフェミニズムもわかっていないという話だ。


逃げ恥(連ドラ)あらすじ

派遣切りに合って無職になった森山みくり(新垣結衣)が家政婦として再就職先を見つけるところから話が始まる。文系院卒に対する偏見から職を失ったみくりが、クライアントを喜ばせようという心意気と、それを実現するスキルによって再就職先を果たす導入に、涙を禁じえなかった文系院生も多いのではないだろうか。
みくりはそのままクライアントである津崎平匡(星野源)と同居することになって、段々お互いを好きになっていくんだけど「雇用関係」という建前があるから素直になれなくて…という「ムズキュン」を描きつつ、いかにして雇用関係という建前を乗り越えるかというところでオチがつく。ガッキーが文系院生にありがちな妄想力と「こざかしさ」を発揮するところが見どころだ。


家事労働の対価

逃げ恥がフェミニズムだと誤解される一つの原因として、連ドラの終盤で「家事労働の対価問題」を取り上げていることが挙げられる。雇用契約から夫婦に移行することで家事労働の対価を節約しようとする平匡に対し、みくりは「好きの搾取だ」とイカした応答をする。

本作が社会現象になったのは、みくり( 新垣結衣 )や、みくりの伯母の百合ちゃん( 石田ゆり子 )が単純に可愛すぎた、ということも一因だと思いますが、一番の人気の理由は、「 愛があれば無償でするのが当たり前だと考えられてきた家事に値段をつけたことによる斬新さ 」でしょう。

なお、厳密に言えば家事は無償労働ではなく現物支給だ

もし本当に家事が無償労働だとすれば…
世の専業主ふ達は家事を一通り終えた後家を出てコンビニやスーパーで夜勤し、なけなしの給料でカップ麺をすすりながらネカフェで夜を明かしていることになるはずだ。あるいは、家主に「家賃」を払って家に寝泊まりするとしても、家賃分をバイトか借金で調達しなければならない。これはあまりに惨い話だ。家事が無償労働だとしたら到底看過し得ない搾取が起こっているということになるが、さすがにこのような話はあまり耳にしない。

現実によくあるのは「現物支給」のパターンだ。専業主ふは家事をする代わりに、寝泊まりする家と三食の食事を供与される。経済統計における「無償労働(unpaid-work)」というのは「金銭授受を伴わないためGDPに反映されない労働」のことであって、一般にイメージされる「対価が支払われない労働」のことではない。当たり前すぎてわざわざ言及されないだけかもしれないが、誤解している人も多そうだ。わかりにくいので「現物支給」という呼称に統一すべきだ思うが。

※ちなみに余談だが、日本の場合は「お小遣い制」というシステムが定着しているため、「現金支給」である家庭が多いようだ。もっとも、以下の記事によると夫のお小遣いの方が妻より金額が高いケースが多いようなので、「支給水準が妥当か」という問題は依然として残る

もちろん逃げ恥でも現物支給分は考慮されている(大学院まで出たみくりがこの点を見落とすはずがない)。みくりは家事労働の対価を月19.4万円と試算した上で、家賃光熱費食費を差し引いて9万ちょっとを支給額として要求した。

この「19.4万円」という数字の妥当性は議論を呼んだ。「1日7時間もかかるとはどんな豪邸か」「家事も半分は自分のために行っているのだから給与も2分の1掛けすべきだ」といった指摘もあるが、右も左もわからない新卒ペーペーの基本給ぐらいは貰って良い気もするし、そもそも主ふが「家事」という労働に従事しているのは扶養者側の都合であることも考慮されるべきだろう。「家事をせずに外で働いていたら得られたであろう給与分の機会損失」という観点でいけば、人によっちゃあ30万40万だっておかしくない。

だが、そもそも19.4万円の客観的妥当性など問題ではないのだ。


契約の原理

契約の原理に従えば、主ふ側が「19.4万円もらえないなら家事労働したくない」と思ったなら、その金額を提示する権利はある。もっと言えば30万だろうと40万だろうと、金額を提示する権利はある。契約相手は値下げ交渉をすることは出来ても、値下げを強要することは出来ない
「19.4万円もらえないなら家事労働したくない」ということは充分ありうる。こんなの新卒ペーペーの給料で、同世代が昇給してる中自分だけ20前半の若造の給料に据え置かれたら不満だろう。たとえ仕事内容からして貰いすぎだったとしても、自分で進んで選んだというより扶養者にとって都合がいいから選んだ仕事なのだから、高めの金額を提示しようとするのがまともな商人感覚だ。

逆に、契約の原理に従えば、扶養者側は19.4万円だろうが5万円だろうが、契約を拒否する権利がある。確かに何もしなくても部屋が綺麗になっていて食事も勝手に提供されるというよは快適だ。しかし、そこに19.4万円ほどの価値を見出さないのも不思議ではない。家賃や住宅ローンを考慮したら、下手したら毎日ホテル暮らしするのと変わらない水準だからだ。家事労働にいくらの価値を見出すかは、ひとえにサービスを消費する扶養者側の考え方次第だ

契約の原理に従って、主ふが「19.4万以上貰えなければ契約しない」と、扶養者が「19.4万円ほどの価値は見出せないから契約しない」と言ったらどうなるか。単に

契約が成立しない。

それだけだ。誰の権利も侵害されていない。いやでも、それを認めてしまうと少子化が…と思うかもしれないが、「少子化」だって誰の権利も侵害しない。生産年齢人口が減って国力が衰えて生活水準が下がっても、それだけで誰かの権利が侵害される訳ではない。

では、なぜ人は結婚するのか。それは、そこに愛があるからだ


愛と正義

ここで、愛と正義について簡単に確認しておこう。専門的な話は省くが、愛とは「差別の原理」であり、正義は「無差別の原理」だと区分することができる。

人の利他的行動は、愛の名において行われる場合と正義の名において行われる場合がある。このとき、「他の誰かだったら助けたかどうかはわからない。あなただから助けたんだ!」となるならそれは愛に基づく行動で、「あなただから助けた訳ではない。同じ状況なら、相手が誰であろうと助けた。」となるならそれは正義に基づく行動だ。

これは我々の直観的なイメージとも合致する。
誰にでも優しい人が自分に優しくしてきたとき、あなたはそれが愛だとは感じないだろう。愛されたいという欲求は、すなわち「差別されたい」という欲求である。
逆に、自分を窮地から救ってくれた人が別の見知らぬ人を見殺しにして、「あの人はいいよ。顔も知らないし」と言ったら、少なくともその人を正義の味方であるとは感じないだろう。「私のこと好きなのかな…////」とはなるかもしれないが。「無差別であれ」というのが正義の要請だ。

※なお、ここで述べた愛と正義の区別は正義論の観点からの分類で、神学や宗教学はまた別の議論をするかもしれない。

正義は「無差別の原理」であり、権利は正義に基づく要請であり、契約は権利に基礎を置く約束だ。つまり契約は無差別の原理であるが、無差別の原理では人は中々結婚しないだろう。多くの場合、結婚は愛(差別の原理)によって成立する

「私は家事労働に対して20万円出せない扶養者とは結婚しない。でも、あなただけは特別」と考える主ふと、「私は家事労働に対して現物支給で10万もかかる相手とは結婚しない。でも、あなただけは特別」と考える扶養者が出会うことで結婚が成立する。
結婚は「無差別の原理」ではないから、いきなり私が出ていって「ほい20万円。CEO!CEO!」と言ってもガッキーが結婚してくれる訳ではないのだ。

逃げ恥と差別の原理

「ムズキュン」とは何か。本当は愛(差別の原理)に基づく関係を築きたいみくりが、文系院卒特有の奥手さと「こざかしさ」から、権利(無差別の原理)を装って関係を深めていくところが「ムズ」であり「キュン」なのだ。

そして、2人で揃って無差別の原理を装っているところに付け込まれて、イケメン女たらし(大谷亮平)に「うちにも来てくださいよ」と言われてしまうが、無差別の原理を装っている2人は拒否できず、それがまた…ムズキュン!

「好きの搾取」という言葉は、一見すると「差別の原理なんかやめて無差別の原理で夫婦関係築いていこうぜ」と主張しているようにも見える。しかし、この言葉を使ったときみくりは文系院卒特有の奥手さと「こざかしさ」を発揮したに過ぎない。その証拠にこのシーンでみくりは妄想に逃げ込むという、本作品において象徴的な意味を持つ行為をしている。

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さらに第11話で、みくりが要求していたのは賃金ではなく愛情だったことがはっきり示されている。

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これに関しては、以下のブログ記事が鋭い指摘をしている。

単純に、みくりが好きだから結婚すればいいって言えばよかったのに〜〜!!平匡のばかー!!!

差別の原理と無差別の原理を区別せず、みくりの発言を字義通り捉えるしょうもない解説より、純粋にドラマを楽しんでいるこのブログの著者の方がよほど的を射ているだろう。

「覆い隠している」のであって、取って代わっている訳ではないのだ。


フェミニズムと結婚

「個人的なことは政治的なことである」をスローガンとした(古いか?)フェミニズムは、結婚や家族関係に正義/権利(無差別の原理)を持ち込もうとした。普遍的な正義の要請は夫婦や家族の関係にも適用されるべきだとして、「女性の権利」という観点から家族関係を再構築しようとしている。もちろん、正義を厳格に適用することを間違いだとすることはできないが、行き着く先が不婚社会であることに気をつけたい。(とはいえ、不婚社会もまた誰かの権利を侵害している訳ではない)

逃げ恥は「無差別の原理」を装った愛情表現がムズキュンなのだから、フェミニズムやポリコレとは一線を画す

最終的に、2人が共同で家庭の「最高経営責任者(CEO)」になったのが解決の形であるかに描かれるが、(中略)なにより、「CEO」になることでそれまで支払われていた家事労働に対する賃金が明確な形では支払われなくなっているのだから、当初の主題からすれば後退している。こうして、もっとラディカルな問題提起をできたはずの作品は、ひょんなことから同居を始めた男女が恋に落ちるという陳腐なストーリーで終わってしまった。

こちらの記事は、みくりと平匡が最終的に「差別の原理」を採用したことを「陳腐」と評している。物は言いようだが、ムズキュン逃げ恥を愛してやまない私としては、「陳腐」ではなく「王道」と評したいところだ。

「連ドラのときと変わっていない」という指摘は当たっているが、連ドラのときからフェミニズムだったのではなく、そもそも逃げ恥はフェミニズムとは関係がない。

逃げ恥がフェミニズムだと思っていた人たち、つまり「無差別の原理」を装った「差別の原理」に気づいていなかった人は、一体何にムズキュンしたというのだろうか??

…………いや、マジでさ!


結婚の難しさ

普通の人に頼まれたら断るようなことを、「あなただから特別に」といって引き受ける。これが両方向で成立すると「差別の原理」に基づく結婚が成立するのだが、これは結構難しいことなのではないだろうか

だってそうだろう。正義に基づく正当な要求だって、ときに応じるのが億劫になることがある。まして、「普通の人には頼めないような過度な要求」を平時から突きつけられる関係性に合意できるカップルが、この世にどれだけあるだろう。

結婚が「差別の原理」であり「特別扱いの要請」であると肌で感じたみくりの言葉は重い。

「やめるなら、今です」

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ここまで考えが及んだ上で結婚するのであれば、きっと2人はうまくいくだろう。しかし、世の中には軽い考えから結婚して後になって「あれ、権利は?」となってしまうカップルが少なくないのではないだろうか。平匡は、「特別扱いの要請」であることを受け入れた上で結婚に応じるのだ。なぜなら彼は、みくりを「特別扱い」したいと思っているから。

「みくりさんと出会って変わったんです」

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「差別の原理」に基づく結婚は難しい。かといって、契約の原理に基づく結婚も成立しずらい。昔は男性から時間を、女性から賃金を奪うことで結婚のメリットを大きくし、国策として契約の原理に基づく結婚を成立させることに成功していた。その後、女性の社会進出、働き方改革、家電の発達が進むにつれて契約の原理に基づく結婚は成立しずらくなり、恋愛結婚ブームによって「差別の原理」に基づく結婚が広まった時期を経て、「差別の原理」のハードルの高さに気づき始めているのが現代の人々なのだろう。

※昭和の頃は一般的で、今も一部のベンチャーに見られる「家族のような共同体としての企業」は、「無差別の原理」でやるべきところに「差別の原理」が持ち込まれていると見ることもできる。契約の原理に基づく結婚の逆バージョンだ。昔は「差別の原理」と「無差別の原理」が未分化だったのだろう。とすれば、権利をちゃんとやることが進歩であるのと同様に、愛をちゃんとやることも進歩と呼べないだろうか。

※※「差別の原理」に基づくべき関係性に「無差別の原理」が持ち込まれるようになったという議論は、ユルゲン・ハーバーマスという社会学者が「システムによる生活世界の植民地化」と称して論じている。システムとは政治システムと経済システムのことだ。詳しくはユルゲン・ハーバーマス『公共性の構造転換』を。


テレビというスキーム

連ドラの話が多くなったが、そろそろ新春スペシャルの話をしよう。新春スペシャルは確かに「説教成分」は多くなっている。

だが、逃げ恥の説教成分は「無差別の原理」に基礎を置くべき領域で「無差別の原理」を完徹しようという呼び掛けに過ぎない。家族や夫婦といった「差別の原理」によって成り立っている空間に「無差別の原理」を持ち込もうとするフェミニズムとは決定的に異なる。選択的夫婦別姓にせよ同性同士の結婚にせよ、「無差別の原理」に基づいて権利をちゃんと認めようぜ!という話しかしてないのだから。

ただ、フェミニズムやポリコレと一線を画しているだけで、逃げ恥新春スペシャルが「説教成分」を多分に含んでいることは事実で、そのこと自体が不満を買っているようだ。

だが、よくよく考えるとこれはテレビの本来のあり方だ

テレビ局が面白い番組を作るのは、人を集めてCMを見せるためだ。テレビ番組というビジネスはCMの広告料によってマネタイズしている。(民放の)テレビ番組というのは須く「本当に見せたいコンテンツ」を見せるための客寄せに過ぎない。普段はそれがCMで、今回はCMの代わりに「製作者的に重要な説教成分」が入っただけだ。

民放も、民間企業とはいえ公共の電波を独占している以上は公共的責任を負うだろう。広告料を稼ぐだけじゃなく、このぐらいの「説教成分」を盛り込む方がむしろ望ましいとすら言える。そういう意味では、以下のツイートの「Eテレ教育番組気分」というのは的を射た指摘だ。

ただ、個人的には選択的夫婦別姓や同性婚など、「説教成分」の内容は陳腐であるような気はする。どれも既に社会的関心の高いテーマであるし、「不幸の程度」としては比較的軽い部類のものだからだ。

夫婦別姓や同性婚が認められずに困っている人は、基本的に幸せになるためのピースをほとんど揃えた上で「あとひとピース」が足りずに困っている人たちだ。好きな人と一緒にいることが叶わない人からしたら控えめに言って「贅沢な悩み」だし、まして好きな人に限らず人とうまく関係を築けない人や、経済的困窮のためにそれどころではない人から見たら尚更だろう。

とはいえ、程度が軽いからといってその不幸が無視されて良い訳ではない。逃げ恥新春スペシャルは充分意義深い。「他に取り上げるべき問題があるんじゃない?」というのはほとんど考え方の違いだ。「不幸の正規分布」の真ん中あたりにいる「ちょい不幸」という多数派に刺さる作品を作るのは、なんとも民放らしいじゃないか。

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