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創作家は全員これを読むべきだと思っている


 オーバーな表現というものは大多数の興味関心を引きつける一方で、いざフタを開けてもらったときに「なんだ、大したことないな」とがっかりされる危険性もある。だが、私はこの書籍に関しては冗談抜きに「創作家は全員これを読むべき」だと思っている

 さて。

「私の作った、この作品の出来映えはどうですか?」

 あなたは、そんな問いを誰かに投げたことはあるだろうか。
 絵でも音楽でも彫刻でもエッセイでも……何でも構わないのだが、ともかく、自分の作品の出来映えなどについて、他者に評価を求めたことはあるだろうか?
 もしくは、そんな疑問を誰かに投げたいという欲求を抱いたことはあるだろうか?
 スキがこない、コメントがもらえない。通知欄では閑古鳥が鳴くどころかサンバのリズムに合わせて踊り出す始末。
 自分の作品は誰からも必要とされていないのでは? という疑問を抱いた人はきっと沢山いるはず。筆を折りそうになった人もいるかもしれない。
「いや! 私はそんなこと一瞬たりとも思ったことないですよ!」という人は、おめでとうございます。そのまま突き進んでください

 そして。
 冒頭の問い「私の作った、この作品の出来映えはどうですか?」をぶつけられた有名詩人がいる。
 そしてその答えは、なんと文庫本になっているので簡単に読めてしまうのだ。

 その本とは、
 リルケの「若き詩人への手紙」である。



 ※新潮文庫版では「若き女性への手紙」も同時収録!

「若き詩人への手紙」を知らなくても、リルケの名を知っている人はいるかもしれない。湊かなえ先生の「母性」にて、引用されている詩の作者である。

 母性は最近、映画化された。
 2022年11月29日現在絶賛上映中!

 話を戻しまして。
 リルケにお便りを送った若き詩人ことフランツ・カプス。
 事の始まりは、なんと自分が読んでいた詩集を書いた人(リルケ)が偶然自分の恩師と知り合いだったと知り、「そうだ、教えを請おう」と思い立って手紙を書いた……という。アグレッシブ。
 そしてお手紙に自分の作品を同封して、リルケに送りつけたのだ。
 その結果、なんとお返事が届いた。届かなかったら文庫本は存在していないので返事がくるのは当然なのだが……。

 さて、この文庫本(手紙)を手に取ったとき、私は物書きとして底辺だった。
 正直現時点においても中堅とは言えない立場ではあるが、「私は底辺です」という自虐の込められた名乗りは物書きの立場からはしたくない。周囲が「こいつは底辺字書きだな」と思うのは勝手だが、自分から名乗りたくはない。底辺じゃない、目立たないだけだと言いたくなる(物は言い様)。
 しかし当時の状況を振り返り、自分のことを表現するとき「底辺」という言葉が状況においても精神においても相応しくなってしまうのだ。

 創作SNSでの評価やランキングに疲弊しつつあった私は、小説という表現自体は好きだったが、殆ど見向きもされない状況に精神が死んでいた
 今思うと随分こじらせていたものだと少し恥ずかしくなるが、若い頃に患いやすい病の一種であり、誰かに直接的な迷惑をかけたことはない(多分……)のでどうかこの見苦しさは許して欲しい。
 ともかくこの頃の私は承認欲求モンスターだったと思って頂ければよい。
 そんな状態だった私は、偶然リルケに出会った。

 一体何故私がリルケを取ったのかというと、とあるダンスゲームに登場するキャラクターがリルケ愛好家だったからというだけではなく、そのキャラクターが真っ黒に塗りつぶされた円の周囲にリルケの言葉を書き散らしたイメージから誕生したという、こちらも話すと長くなりそうなので割愛する。
 ともかく、そういった縁があって私はリルケを手に取った。
 つまり、キャラクターの解像度を上げるためにリルケを買ったのである。動機はやや不純。

 リルケの手紙は「お手紙ありがとう、感謝感謝(意訳)」から始まるがその直後、こう続く。

しかし私にできますことはそれだけです。今すぐあなたの詩風について何か申上げることは私にはできません。

リルケ 高安国世 訳
「若き詩人への手紙」新潮文庫

 えっ。

私は批評がましいことは一切したくないのです。

リルケ 高安国世 訳
「若き詩人への手紙」新潮文庫

 えっえっ。
 いや、でもお返事が来ただけいいのか……とちょっと思わなくもない。
 しかし、

一つの芸術作品に接するのに、批評的言辞をもってするほど不当なことはありません。

リルケ 高安国世 訳
「若き詩人への手紙」新潮文庫

 な、なるほど……!?

それは必ずや、多かれ少なかれ結構な誤解に終るだけのことです。物事はすべてそんなに容易につかめるものでも言えるものでもありません、ともすれば世人はそのように思い込ませたがるものですけれども。

リルケ 高安国世 訳
「若き詩人への手紙」新潮文庫

 なんとなくこの辺りで「すとん」と落ちた。SNSでの創作活動に疲弊した私の心にはもの凄い勢いで染みていった。驚きの吸収力。しかしまだだ。本番はここからである。

 さて、「この作品どうですか?」の問いに対して「批評したくないです」で終わったらこの手紙は文庫本になっていない。A6の紙一枚で終わってしまう
「批評したくないです」を覚え書きにして、リルケは次にフランツ・カプスが創作した詩について綴っている。
 そして、彼の作品における「欠陥の説明」についてリルケは綴っている。

 力強い言葉の衝撃は、本当に脳天からやってくる。
 人を傷つける類いの言語は頭の中でガーンという衝撃が反響するのだが、人を勇気づけ、奮い立たせる言葉はつむじの辺りから真っ直ぐに身体を貫く。本当ならここに五百円玉を読者の人数分だけ置いて「続きは文庫本を買おう!」という終わり方をしたいのだがここは読書感想文。それを綴るにはどうしても必要なので、次々に文章を引用させてほしい。問題があったら消します(常套句)。

あなたは御自分の詩がいいかどうかをお尋ねになる。あなたは私にお尋ねになる。前にはほかの人にお尋ねになった。あなたは雑誌に詩をお送りになる。他の詩と比べてごらんになる。そしてどこかの編集部があなたの御試作を返してきたからといって、自信をぐらつかせる。では(私に忠言をお許し下さったわけですから)私がお願いしましょう、そんなことは一切おやめなさい。

リルケ 高安国世 訳
「若き詩人への手紙」新潮文庫

「そんなことは一切おやめなさい」
 太字強調どころか黄色い蛍光ペンで線を引きたくなるような衝動に駆られる、強烈な一言である。
 このフランツ・カプスのやっていることが、確かに当時の私と重なった瞬間だった。つまりこういうことだ。

 ――あなたは御自分の小説がいいかどうかをお尋ねになる。あなたは私にお尋ねになる。前にはほかの人にお尋ねになった。あなたは某創作SNSに小説をアップロードされる。他の小説と比べてごらんになる。そしてどこかのユーザーがあなたの御試作を評価しなかったからといって、自信をぐらつかせる。

 そのまんま自分だ!? と思った。本気で思った。
 この手紙は1903年のものなので創作SNSどころかパソコンすら存在していない。そんな時代にこの手紙が存在していたのだ。いつの世も創作家(※手紙の対象は厳密には詩人ではあるが、ここではあえて「創作家」に対象を広げさせてほしい。現に私は詩ではなく小説を書いている人間だ)は同じような悩みを持つものなのだろうか。

「自分の作品の善し悪しを他人に聞くな」「外へ目を向けるな」(意訳)と語るリルケは、次にどうすれば良いのかをフランツ・カプスへと伝える。それが以下の文である。
 

自らの内へおはいりなさい。あなたが書かずにいられない根拠を深くさぐって下さい。それがあなたの心の最も深い所に根を張っているかどうかをしらべてごらんなさい。もしもあなたが書くことを止められたら、死ななければならないかどうか、自分自身に告白して下さい。何よりもまず、あなたの夜の最もしずかな時刻に、自分自身に尋ねてごらんなさい、私は書かなければならない、、、、、、、、かと。深い答えを求めて自己の内へ内へと掘り下げてごらんなさい。そしてもしこの答えが肯定的であるならば、もしあなたが力強い単純な一語、「私は書かなければならぬ」をもって、あの真剣な問いに答えることができるならば、そのときはあなたの生涯をこの必然に従って打ちたてて下さい。

リルケ 高安国世 訳
「若き詩人への手紙」新潮文庫

 この言葉が私の脳天をブチ抜いた
 比喩でもなんでもなく、事実としてブチ抜いた。
「評価がこない」「イイネも来ない」「そもそも閲覧数が伸びない」で悩み苦しんでいたところに「自らの内へおはいりなさい」から始まる文章が、純粋な精神を以て私の脳天を貫いたのである。
 見失った創作の根源が目の前に現れた瞬間だった。
 そうだった、そうだったじゃないか。書きたいから書いていたのであって、身体の内側から溢れ出る衝動を、まだ確かな形を得ていないものを文字で表現したかったのだ。評価だの点数だのブクマだのいいねのために書いているわけではなかった。どうしてそんな重要なことを忘れていたのだろうか?

 おそらく、リルケと私の「創作」に関する解釈はほぼほぼ完全に一致している。私はこの答えを無意識に欲していたのだ。
 まさかキャラクターの解釈補強のために手にした小さな本からこんな衝撃を受けるとは思っていなかった

 ……なんか表現がいちいち大袈裟な気がするが、実際そのくらいの衝撃だった。五百円でおつりがきていいのか!? と思った。
 ※当時は定価324円(税別)でした

 手紙はまだ続く。問いに対する答えを出す手法や、内に入っていく手段を綴り、最後にフランツ・カプスがこの手紙を出す切っ掛けとなった人物――ホラチェック教授への感謝、そして最後に改めてフランツ・カプスへの感謝を述べて一通目の手紙は終わる。

 ……そう、一通目である。
 まだ九通もある。
 繰り返す。まだ九通もある

 二通目以降に関しても引用したい言葉が山ほどあり、それこそ「孤独」に関してつらつらと綴ってもよいのだが、十通ある書簡のうち、初手でこちらの脳天を全力でブチ抜いてきたあの手紙が何だかんだで印象が深い。
 このnoteを読んで「気になった」という人は是非、お近くの書店でお買い求めください。リルケです。よろしくお願いします。

 ともかく、あの十通の手紙の中のどこかに、あなたの心を真っ直ぐ打つフレーズがあるはずだ。そして後書きを読んで、この手紙を直接やりとりした「若き詩人」――フランツ・カプスがどうなったのかを見届けて下さい。


 私は、創作を宗教の一種だと考えている。なにかを形作ることに対して、何を見て何を信じるかは人それぞれである――その構図に私は宗教を見ている。そういう意味においても、この本は私にとっての聖書と言えるだろう。

「人生を変えた一冊」という言葉は、本を紹介する上で最高の言葉ではないだろうかと思う。私はこの言葉を「若き詩人への手紙」に送りたい。


   追記

 ところで、上記のリンクを探しているときに知ったのだが……なんと。

 まさかのフランツ・カプスからの手紙まで収録したバージョンが出ていた(全然知らなかった)。

 感想文を書くかどうかは分かりませんがとりあえず宣伝でした。

#読書の秋2022 #人生を変えた一冊

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