細川洋平(ほろびて)

yohei hosokawa 演劇カンパニー・ほろびての主宰、劇作、演出/俳優/アニメライター

細川洋平(ほろびて)

yohei hosokawa 演劇カンパニー・ほろびての主宰、劇作、演出/俳優/アニメライター

    最近の記事

    発売中の「テアトロ」で。

    お知らせが遅くなってしまいました。現在発売している演劇総合誌『テアトロ』2023年5月号、特集「今年も駆け抜け続ける演劇人」の中で細川を取り上げていただいています。本当にありがとうございます。筆者は高橋宏幸さんです。 不条理演劇を入り口に、今までにはなかったような切り口でじっくり書いていただきました。ほろびてHPでは掲出していたのですが、告知が遅くなってしまいました。毎月12日あたりに最新号が出てしまうので、11日、12日のうちにぜひお求めください。 次回公演のことをじっく

      • 4月20日

        新国立劇場で『エンジェルス・イン・アメリカ』を通して見て、過去上演の劇評でも読みたいなと思いネットを徘徊していた。するとF/Tの杉原邦生さん演出作品の劇評(https://www.festival-tokyo.jp/13/critic/2012/01/kunio-aia.html)に行き当たり、そこから第55回岸田國士戯曲賞の選評(https://www.hakusuisha.co.jp/news/n12261.html)に飛んだ。 前日(4月18日)に偶然、第28回劇作家

        • 4月3日

          一人でこっそり大失敗をして、とほほ。とほほどころではないんだけど、あれもこれも自分に戻るということで、他の誰にも迷惑はかけていないはず。 ふとテレビドラマの『SPEC』を見返す。学生時代に『ケイゾク』が大好きだった。『SPEC』の編集や演技のアプローチは純粋に遺伝子を引き継いでいる。堤さんだから当たり前なんだけど。インサートカットの面白さ。それから、俳優それぞれの役の解釈の深さ。 最近ずっと本の買い過ぎということもあり、立ち読みで村上春樹のエッセイを。作者が語り過ぎると読

          • 2022年度ありがとうございました。

            2022年度もいろいろと詰まった日々を過ごしました。手探りではありましたがお付き合いくださった方、手をとってくださった方、顔を合わせてくださった方、誠にありがとうございました。 個人が年度で区切るのもおかしな話ですが年末年始はいつもいつも公演準備で全く他のことに頭が回らないということもあり、このタイミングでのごあいさつもいいなあと思いました。 2023年度は少し環境が変わります。思い描くことを実践していけるよう頭を捻って体を使って毎日を迎えようと思います。 『あでな//い

            歩いて止まった時の話

            三鷹駅構内で、「そうだ、トイレどこだろう」と立ち止まったら、後ろから人がぶつかってきて、「ふざけんなよ!」ということばを残し、その人は足早にホームへ降りていってしまった。急いでいたようだ。 トイレを見つけて用を済まし、新宿まで電車に揺られている間、考えた。 自覚している行動としては、普通の速度で歩いていて立ち止まった、それだけだ。確かに普段だったらその場に立ち止まらず、歩きながら通路を逸れて、ひと気のないところまで行くようにしているので、うかつだったとも言える。 とはいえ

            黄昏は外の世界で|認知症の2人についてと|いきをつく

            免許を合宿で取ろうと思い立ったのは8月ごろでした。とにかく安く、でも安全に安心して参加できて、短期間に終わるところを急いで探しました。いろいろ調べると10月あたりはオフシーズンに当たるらしく、繁忙期の年明け〜3月や7月〜8月と比べても10万円ほど安い。これだ、と決めて、申し込みました。 うまく書ける気がしないし、書くかやめるかずっと悩んでいたのですが、書くことにします。極めて個人的な話です。が、僕個人の話ではなく僕にまつわる話です。長くなりますが、よろしければお付き合いくだ

            波及する

            『自由が上演される』を読んで、過激なエピソードの一つの引用元として触れられていた『劇的言語』(鈴木忠志・中村雄二郎)を読み始めました。だいぶ前に古本で手に入れて積んでいたのでしたが、自分のような無学者にとってもおもしろい演劇論の数々。理論と実践を両軸に据えているアーティスト(急に主語が大きく)は強度が違う、足を向けて寝られない、といった感情と共に読んでいます。 僕は正直者ではいられなかった幼少期を過ごしてきたので言葉と身体の距離があると感じているのですが、誰だってそうだと思

            とりとめもなく・10

            言語的記憶と、身体的記憶があって、身体的記憶の方が持続可能性があるのではないかと思ったりする。しかし身体的記憶を持続的にするのは長年に渡る反復しかなく、身体を象徴的に使うような日常がない場合は、ミニマルに削ぎ落とされ(縮退し)ていく。縮退した日常はある閾値を迎えるまで保たれる。 みたいなことを考えています。最近。

            とりとめもなく・9

            <これは「演劇」に関して述べたものです|2022/09/01 17:24追記> 時々、発語に関して気になることがあります。どういうタイミングで気になるのか明確なきっかけはないのですが、「どうして”言葉を発することができるのか”」ということは、稽古中からよく考えています。 前にも書いたような気がするので、割と根底の方にある自分の考えなのですが、言葉を発することは当たり前ではない、ということはことあるごとに言いたいです。とりとめもない会話をするならともかく、あ、そう言う意味では

            ポロポロ

            今年も終戦記念日が過ぎた。山口県下関市に住んでいた小学生の頃は1987年とかで、考えてみれば1945年からまだたったの40年ぐらいしか経っていなかった。周りには戦争体験者がまだまだいたのだろう。ぼくの両親は岩手県出身で、戦争からは遠いところにいたようだが、それもちゃんと聞いていないな。 今年も、8月15日が過ぎた。言葉として、敗戦記念日というべきだという意見があるのも知っているが、何にしても年々遠ざかっていく歴史をどう捉えていくのかはとても大事なことだと思う。 小学校5年生で

            複と単

            ほとんど戯曲は誰か一人の手によって書かれているものだけど、読んでいると重奏的なものと独奏的なものに別れていく。登場人物がそれぞれてんでバラバラに生き、言葉を発するものと、どの人物も根っこの部分では同じ思想で語られる、出発点が同じもの。どちらが優れているというのもなくて、いいのだけど、たとえば独奏を主とする書き手に重奏を期待したり、その逆であったり、そういう場合は単純に噛み合わないので、すぐに一歩引いて、書き手が幾つの楽器を持っているのか、もしくは演奏者を何人用意しようとしてい

            とりとめもなく・8

            あっという間に7月が終わろうとしています。声帯のリハビリも兼ねて、できるだけ戯曲を音読しようと思って何作か実践していますが、黙読よりも体への入り方が違うのでとてもいいです。読んでいて楽しいのは別役さんや岩松さん。特に別役さんのは不条理劇ということもありうずうずします。大声で言いたいなあと思うのは今のところテネシー・ウィリアムズです。 「ガラスの動物園」の新潮文庫版解説で、テネシー・ウィリアムズの姉がロボトミー手術を受けていたということが書いてあり驚きました(知らなかった)。

            あつし

            気を抜くと汗が出ます。あつし。 代謝が悪い日々もあってそういう時は汗があんまり出なかったので汗出るのもいいなと思えるようになりました。 いろんなアーティストや演劇関係者の方々と話ができるようになって、自分の中に実感としての体系図が出来上がってきているのを感じます。何年やっても完成しなさそうではあるけど。 何となく、鳥公園の西尾さんが実践していることが朧げながら自分にも「わかるかも」と思えるようになったのは、私生活の変化が大きくて、結局舞台芸術をやっていこうと思っている中に

            道しるべ

            この頃、やっと落ち着いて読書ができていて、ありがたい。3月に祖母が亡くなってからの慌ただしさといったら。いろいろあったのでいずれ書こう。 一つ前の文で、「泣くこと」について書いたけど、もう少し補足が必要だったなと思った。泣くことに対するツッコミは、僕が何かに触れたり見たりしたときのことだ。もしくは演出をしている時に、俳優が演技で流す涙がどういう効果を持っているのか、を考えるとき。その他の場面で、誰かを見て「その涙は正しいか」みたいなことはもちろん考えたりしないので、誤解され

            世界難民の日

            『マイスモールランド』を見て、『FLEE』を見て、先日『東京クルド』を見た。後者二つはドキュメンタリー(『FLEE』はドキュメンタリーをアニメに描き直すことで、登場人物を保護する役割があり)で、それから最後者は自国が関わっているということで、突き刺さってしまった。 以前、『しわ』のエントリを書いたときに、「泣くのは違うと思う」と書いた。第三者が「泣く」という行為には同情が混じってしまうから、泣くことで傍観者としてその出来事を捉えることになる、と思った。当事者たちが複雑な感情

            『心白』が終わり

            『心白』が終わった。ご来場いただいた皆さま、ありがとうございました。 今回は学びの多いクリエイションとなった。 社会との接点としての演劇活動、自らの日々とのやりとり。避けられないこと。 当日パンフレットの挨拶文に書いておけばいいのだけど、挨拶文を書く時期はいつも頭が作品の構築に振り切っていてうまく言葉にならないので、あとがきみたいに、だけどやたらと抽象的な振り返りをしよう。 自分の中で試みることができたものや一期一会とはいえカンパニー参加者全体でポジティブであり続けたこと