カバンには水分を吸わないハンドタオルしかない

2024年8月18日
 劇壇ガルバの稽古場にお邪魔する。自分の担当パートを稽古初日の本読みを経て書き直した、その部分を確認するため。稽古場ではみんなにむかえてもらい、親戚の家に来たみたいな気持ちになって、気恥ずかしくなる。ぼくも自分の稽古場であんなふうにいろんな人をむかえたいと思った。

 前回のガルバで感じた、憧れるような大人たち、先輩、同世代、後輩、そういう人たちの姿をまた今回のガルバでもみんなの中に見ている。

 有料のパンフレットに収録されることがあるので、創作のことやいま感じている鮮明な印象はそちらに話そう。というつもりなので、パンフレットはぜひともご購入くださいませ。台割(構成プランのようなもの)を教えてもらったけど、今回もまた読み応えたっぷりの素敵な本になりそうです。

 昨年、アニメ雑誌のお仕事をおやすみしていたこともあって途切れがちになったライター職の方も少しずつ復帰。現場に入ると刺激を受ける。

 家にあるブレヒトの戯曲、光文社古典新訳文庫版を見て、そういえば谷川道子さんはいないんだなと実感する。面識はないのだけども。

 7月に上演していた文学座『オセロー』を見て、もちろん横田栄司さんはすんばらしかったのは言うまでもなく、本当に言うまでもなくだった。と、同時に、思い出したのはNTLの『オセロー』だった。また見たいなあ。シェイクスピアの女性は華々しいこともあるのだが、男性の添え物感がやっぱりどうしても拭えない。だけどNTL版のデズデモーナは、存在の仕方が自分の心情にいちばんしっくり来た。脚色しているので時代に即しているのはそうなのだけど、うれしかった。オセローに縋るのではなくて言葉で相対していた。これ、前にも書いたっけ。

 頭をリセットする用に『ファイナルファンタジーⅩ』(PS4)を少しずつ、20年ぶりにやり直している。当時はインターナショナル版(PS2)をやっていたので全編が英語だった、ティーダやリュックのキャラクターが日本語だと全然違うので新鮮。英雄譚ではなくて、何人もいる、世界の厄災に立ち向かう人々の中の1人と、その仲間たちの物語というのもうまい。どこか『葬送のフリーレン』に似ている。ヒンメルたちが魔王に挑んでいた世界では、勇者さまご一行が何組もいた。そのうちの一組、ヒンメルたちが魔王を打ち倒し世界を救ったが、それは結果論としてある。ドラクエのロトシリーズに見られるような血統主義の批評的立場が感じられて、僕としてはこちらの方にぐっと来てしまう。いや、貴種流離譚などは、自分がそうだったら、みたいな憧れがそこにあるからそれはそれでいいんだけど。余談だけど、今は血統主義、選ばれし勇者の流れは異世界転生ものに変わっている(個人的な見解です)んだよな。転生先の異世界では前世の知恵を使えば無双できて最強。かなりのバリエーションは出てきたけど、この先どんなふうに変化していくんだろうな。

 考えなくちゃいけないものがひとつあるんだけど、全然前に進まない。そういう時に別の思考がはかどってしまう。

 散らばった言葉の中に埋もれている意味がきちんと浮かび上がってくる、ということは実生活では普通にあふれていることだけど、その言葉を、正しく使わないことで、だけど正しく使わないという発言者の姿勢そのものが、正しく使っていないだけで意味は切実であるーーみたいなことはたくさんある。言葉が散らばっていても、意味が伝わるのであればいいし、会話の中で多くの人がなんとなく、あるいは難なくそれをやってのけている。そういうものの連続が、いい感じに立ち上がったらいいな。ということを考えて。

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