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明治の開国は市民農園も生み出した―ドイツのクラインガルテンとの関係

洋服、レンガ、牛肉――江戸時代の長い鎖国のあと、日本は開国し、欧米のさまざまな文化や技術を取り入れたことはよく知られています。しかし、いま身近に何気なくある市民農園まで、実はそのときに生まれたものであったことは、意外と知られていないのではないかと思います。

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↑市民農園の一例。住宅地内にある農地を使った貸農園

明治の文明開化を経て都市計画も欧米に習い始め、大正に入った1920年ごろにドイツのクラインガルテン(Kleingarten)が日本の造園技術者や研究者によって盛んに紹介されるようになりました。クラインガルテンはその始まりには諸説ありますが、有名なものとして、都市の環境悪化に危機感を持った19世紀末にライプツィヒのシュレーバー博士が菜園付き子供の遊び場を提唱して、その理念にもとづいてハウスシルトという教育家がシュレーバー協会を設立、市の土地を子どもの遊び場として整備、その後ゲゼルという教師が遊び場周りに農園をつくったことが現状のクラインガルテンを形作ったと言われています。

その後、急速にドイツ、オーストリア、その他各国でガーデン運動が広まっていきました(一方、英国は英国のアロットメントガーデンの歴史があり、こちらも当時日本へ紹介されていましたが、ドイツほどではなかったようです)。

シュレーバー博士ら肖像画トリミング

↑ライプツィヒにあるクラインガルテン博物館の展示。上方左がシュレーバー博士、中央がハウスシルト氏、右がゲゼル氏の肖像

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↑「家族の畑」が「ガルテン」となっていき、1870年に最初のシュレーバーガルテン施設(クラインガルテン施設)が出来たことを示す絵。
こちらもライプツィヒのクラインガルテン博物館所蔵

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↑クラインガルテン博物館が併設している、最初のシュレーバーガルテン施設の1区画(おそらく現在も普通に利用されているようです)

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↑現在のハノーファーのクラインガルテン区画の一例。300m2くらいが1区画で、面積24m2以内の小屋が建てられ、そのほかは芝生やお花壇、畑など

連邦クラインガルテン法第1条では「クラインガルテンらしい使い方」が義務付けられていますが、この解釈として、2004年にあった裁判の結果、3分の1は果樹や野菜の畑にしなければならないとなっています。つまり100m2程度は畑にするということですが、その時点で日本の市民農園の区画(ものによりますが、10m2程度)の10倍以上です。

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↑区画は連なってまとまった大きさの緑地に。道中、個性あふれる多様な区画を眺めることができる

クラインガルテンは現在、都市計画上、法的に守られているものが多くあります。残念ながらそうでなく、開発用地として使われることもありますが、基本的にはその存在が保護されています。かつて都市がまだ小さかったころに縁辺部にできましたが、今や大きくなった都市に取り込まれて、街中に点在する状態になっています。バスやトラムや近郊電車で、気軽に行けてしまいます。

クラインガルテン分布(ポリゴン)

↑(ドイツではなくオーストリアのウィーンですが)赤い部分がクラインガルテン。freytag & berndt社の2009年地図をもとに立地を把握し、ウィーン市提供の地図画像に筆者加筆

↑上から見ると、小屋のある区画がまとまって並ぶ

クラインガルテン自体の説明が長くなりましたが、本題に戻ります。開国後、都市計画も欧米に習おうとしていた日本においてこうしたクラインガルテンが紹介され出すと、これこそ都市住民の健康を維持するために、都市にあるべき緑地だという声が上がるようになりました。

特に注目したのが、御堂筋も生み出した当時の大阪市長、關一氏でした。關氏の一声により、大阪の郊外の農地にまず「市民農園」が設置され、その後利便性を考え、都市の中心部に近い公園に「分区園(同じく区画貸しの農園で、公園にできたもの)」が設置されました。時を同じくして、東京の大泉学園にも市民農園、そして羽澤公園にも分区園がつくられました。

土地の制約上か、クラインガルテンよりも区画は遥かに小さく、小屋や芝生を設ける余裕のない農園ではありましたが、こうして公に市民農園と呼ばれるの歴史は始まったといえます。それ以前にも類するものは私的にあったかもしれません。

その後第二次世界大戦が始まると、食料不足で国会議事堂の前に畑をつくるほどの緊急事態ゆえ、もはやどこも空き地を耕すという形となり、きちんとした貸し農園の議論をしている余裕はなくなったようですが、戦後に都市の拡大が始まると自発的に農地を貸し出して「市民農園」が生まれていき、種々の法整備を経て現状に至るようです。

結局は農地を自発的に貸し出した農園が広まったということで、直接的にドイツのクラインガルテンが元となっていないのでは、とも解釈できますが、その形態や名前は既に明治時代にあったことは確かです。

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身近にある空間も、文明開化の流れを汲んだものであったと考えると、浪漫が感じられるのでは、と思っています。市民農園も実は大正浪漫…かもしれません。





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