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昔のレコード、溝まで持つか?穴まで持つか?

コロナ禍の流れでnoteへ漂着しました。これが初投稿です。

今年のNHKの朝ドラ『エール』は意識的に観てないのである。友人たちや仕事関係の人で番組に係わっている人も居るのだが、申し訳ないが観ないことにしている。
何故かと言うと答えは簡単であって、きっと「あそこが違う、ここが違う」と注釈を付けたくなってしまうであろうと思ったからである。
まず、主人公やその他の人名が歴史上の名前ではなく架空の名前であると言う前提からしてフィクション部分が多いと思われたが、心配は現実のものとなり、開始以降「ドラマの演出」が賛否両論を巻き起こしている。

そんなわけで、番組が始まりそうになるとチャンネルを変えるほど徹底して観ていないのだが、時折画像付きで如何かと思うものがツイッターなどで流れてくるようになった。
これに鬼の首を取ったようにいちいち触れてしまうと、「観ないくせに文句言うのか!」と言われてしまうので我慢我慢。
とはいえ、その中でもレコードの録音に使用されるマイクの考証が気になって多少触れたのだが、そうこうしているうちに「レコード盤の持ち方」についてツイッターで炎上すると言う騒ぎが起こってしまった。

少し時系列は戻るが、炎上以前に流れてきた画像でラッパの蓄音器の脇に「レコード立て」を使ってレコードを縦に置いてあるシーンがあり、これを見て嫌な予感がしたのだ。
それは2017年に放送されたNHKの土曜時代ドラマ『悦ちゃん~昭和駄目パパ恋物語~』でも同じようなレコードを立てて飾ると言うシーンを見掛けたからだ。
これについて冷静な分析を施すと、昔のレコード(SP盤)は現行のビニール盤と違い比較的熱に弱く、縦にして置いておくと真夏などは反ってしまうので「寝かせて置く」のが鉄則であったのだ。例外としてレコードが30枚程度入る当時「サック」と言われたトランクに縦で隙間なく入れて置くと言う方法もあったが、それでもそのサックを夏場は寝かせて置くことを推奨されていた。
いずれにしても、昔のレコードを縦に置くことは一般的に不自然なのであるが、これは僕のようなレコード愛好者の視点であって、一般視聴者からすると「寝かせて地層のように積みあがっている物をレコードと視認出来るのか?」と言う大きな問題が横たわる。時すでに「CDすら触ったことがない30代」が存在する令和の時代にこれはとても難しいビジュアルである。

話はややそれたが、朝ドラ『エール』2020年6月3日の放送で「レコードの溝を持つ」と言うシーンが流れ、それについてのダメ出しが炎上の発端だった。
僕は前述のように観ていなかったのだが、ツイッターのTLを見ているとフォロワーの友人たちが「SPレコードの持ち方とは」について次々と見解を表明しているのを見てようやく気付いたと言うわけだ。正直ツイッターで流れてくる画像を見た最初の感想は「危なっかしい持ち方だな」という物だった。

さて、まず炎上していた主眼であるドラマでの持ち方は正しかったのか誤りであったかと言う点だが、これは「正しいに近いが、どちらでもよい」と言う事だろう。
事実関係としては戦前の所謂「SPレコード」という物は、後年から現在に存在する「LP・EP盤などのビニール盤」と材質を含めいろいろな相違点があり、当時としては「盤面を触ると指紋や手脂が溝によくない」としつつも溝を触りながら持つことが多かった。
これにはひとつ大きな理由があって、ビニール盤が登場する前のSP盤は「落とすと割れる」と言われるほど強度が弱く脆いレコードであったのだ。なので持つときには親指と人差し指以下で深くしっかり持つことが必然であったし、現在それなりのキャリアのあるSP盤の愛好家もその脆さを意識しつつ扱っている。

と言う事実関係があるのだが何故「レコードの持ち方が違う、溝は触るものではない」と炎上したのだろうか。
それは既に視聴者、特にSNSを扱う視聴者の多くが昭和30年代以降に生まれた人間だったからだろう。つまり「ビニール盤」と勘違いしたと言うわけである。しかし勘違いと言うのは正確ではなく、既にSP盤がどんな物かすら世間では共通認識から消えてしまっているのだ。
僕の少年期の昭和末期であれば家庭内でもSP盤を触ったことがある世代の家族がいて(実際自分の父母はまだSP盤を新譜で売っていた時代の人間である)「あれはこういう物だよ」と話題になり、いやはやこれは勉強になりました、などと言うませた子供はいないと思うが、これでいにしえの万物について学んだものである。
しかし、自分自身としても眼前のレコードと戯れることに必死になりすぎているうちに気づけば令和になってしまった。ふと世間を見渡せば10年いや20年前は「小学校の時はノートなんて使わずに授業では専ら石板で字を書いたのよ(戦前の尋常小学校の時代)」と言う老人が骨董市などに行けばたくさんいたのだが、そんな人たちも居なくなってしまった。
つまり、気が付けばSP盤の持ち方についての考察に思いを馳せる人も少なくなり、ビニール盤の「溝を触るものではない」と言う意見が大勢を占めても何ら不思議ではない時代が到来してしまったのだ。

これに対してSPレコード愛好家勢の「いやいやSP盤は溝ごと持つものです」と言うツイートにも違和感を感じた。先ほどの例を引き合いに出すなら自分も含めてそれは「実際に当時使っていた生きた人間の言葉」ではないからだ。各人によるSP盤の扱い方についての考察は大方間違いではないのだが、想い出や実体験による「こうやるものだ」と言う裏付けされたものではないところに座りの悪さを感じたわけである。
本当の戦国時代の人が槍さばきを指南するのと、現代の殺陣師が槍さばきを指南する違いと言えば分かりやすいだろうか。

さて、少し視点を変えてみよう。
我々SP盤愛好家が恭しくレコードを触るのは「歴史的に貴重だ」と言う目線があるからに他ならない。もう世界中どこを駆け回っても割ってしまったSPレコードを「再プレス」してくれる工場も機械も技術も残っていないのだ。SP盤の主原料であるシェラックと松脂と言う離反して混ざりにくい物を絶妙に混ぜる職人技が少なくとも日本では絶えたと言えよう。
当時の人がどうレコードを扱っていたかは古物として発掘した際に様々なのではあるが、その姿を見ればよくわかる。レコード会社の袋を揃えて丁寧に扱っていた人、全部裸にしてサックに突っ込んである人、レーベルが読みにくいので墨でタイトルを大書した人、青年団や婦人会で使い廻しして紛失しないためにステッカーや三文判や彫刻刀で自分の名前を付けた人、などなどと持ち主の使用目的や性格が歴然と判るものだ。
つまり、当時の人々はまさかSP盤が販売停止することが来るとはよもや思わず消費していたと言う訳である。もちろん、これは万物に言えるものであろう。
そう言った、日用品感覚を現代におけるビニール盤を含んだレコード脳の人々には理解しえないとも言える。いわく、「大切に扱う物だ」と。
想い起せば幼稚園のお遊戯の練習の際、先生はポータブルの電蓄でシングル盤を何度も何度も掛けて子供たちを踊らせていた。「はい、次!」と先生はシングル盤を取り換えもせずにピンホールに投げ入れ、時間が来る頃にはレコードがターンテーブルに何枚も重なっていた。ビニール盤ですら当時の日用品感覚では乱暴に扱う人が居たのだ。

ところで、ここまで話を進めてしまって今更説明するのもなんだが、「LP・EP盤などのビニール盤」と言うのは「溝を持たずにレーベルや両端などを持つもの」が基本的なしぐさだ。日用品的な乱暴な扱い方の現場があったとしても、少なくともSPレコードよりも厳密に「溝を持たない」と言う認識がされていた。
これには、材質が雑音の少ないビニールである利点を使い「溝が細い」と言う事が大きく関係している。溝が細いゆえに手脂が付くとその物がノイズとして再生されてしまうからだ。SP盤に比べるとSN比(音とノイズの比率)が格段に向上したビニール盤では、こう言った汚れによるノイズはSP盤以上に気になってしまう物なのだ。
手脂はホコリを誘引し、それ自体が劣化してカビの原因にもなるだろう。溝を手で持つことは禁忌が原則ではあった。
なぜ、ここで唐突にこのような説明を押し込んだかと言うと、実は「CDすら触ったことがない30代」と冒頭に触れた以上に、時は既に「レコードが何物か」を知らない世代が大多数となってしまっているからだ。つまり、「レコードの溝を持つ」事への賛否ですら或る一定の年齢層では共通言語ではないために説明が必要なのである。

これらの事を前提にドラマのシーンをもう一度振り返ってみると、まず撮影現場でレコードを触る所作の指導として「SPレコードを触ったことがある、触り方を知っている人間がいた」と言う事だ。前述のようにSPレコードの知識がない戦後生まれのスタッフからしたら「レコードは溝を持つものではない」のが当然のイメージであるから、敢えて当時の時代考証に沿って「レコードの溝を持つ」と言う演出がなされたに違いない。演出としてはしてやったりだったのかもしれない。
しかし、ここから先は俳優の演技力の問題となってくる。「剣豪はここで刀を抜いて袈裟懸けにエイ、ヤと切り付けるのです」と言うシーンを手慣れた役者は迫力があるように所作が出来、時代劇に不得手な役者はへっぴり腰だろう。
レコードの持ち方ひとつを例にとっても、「落としたら割れるからしっかり持たなきゃね」と当時の人の感覚然と体よりにじみ出てくる持ち方であれば、もう少し自然に視聴者に受け入れられたのではなかろうか。


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