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マリウポリのギリシャ語系とテュルク系ギリシャ人たち

日本のメディアでは「ウクライナ vs ロシア」という単純な構図で報道がされているが、ウクライナはそもそも多民族国家だ。民族的なウクライナ人、ロシア人だけでなく(そしてウクライナのロシア語系住民などの観点もある)、クリミアタタール人やユダヤ人、ルーマニア人,ギリシャ人やロマ人なども居住する多民族国家である。ウクライナはクリミア・タタール人やクリムチャク語を話していたユダヤ人など独特な地位を占める民族が多いが、今回はギリシャ人たちに焦点を当てる。

マリウポリ・ギリシャ人

ウクライナのギリシャ人はオンラインのロシア大百科事典("Большая Российская Энциклопедия")で"МАРИУ́ПОЛЬСКИЕ ГРЕ́КИ(マリウポリギリシャ人)"あるいは"при­азов­ские гре­ки(沿アゾフ海ギリシャ人)"と呼ばれている。その名前が示す通り、ウクライナのギリシャ人は東ウクライナのドネツク州にあるマリウポリを中心に暮らしている(町の名前を見て、「マリウポリ」という名前自体がギリシャ語系の名前ではないかと推測できる人もいるだろう)。ロシア大百科事典の記載によればドネツク州の人口約九一万五千人に対し、約七万八千人がギリシャ系住民とされる。およそ八%がギリシャ系住民ということになる。

ただし、この引用されたソースは二〇〇一年のものであり、ロシアのクリミア侵攻後、そしてウクライナ侵攻後の今日、その状況は大きく変わっていることが予想される。

ギリシャ語系とテュルク語系ギリシャ人

マリウポリのギリシャ人の特殊な点がある。それはギリシャ人を名乗っているが、言語よって二つのグループに大別されるということだ。一つは黒海周辺で話されていたギリシャ語の方言を継承する、ギリシャ語系のギリシャ人(Румеи)、それからクリミア・タタール語によく似たテュルク系言語を話すウルム人(Урум)と呼ばれるギリシャ人のグループに分かれるのだ。

「なぜウクライナにギリシャ人がこんなにいるのか」と思うかもしれない。しかしながら、黒海周辺はヘレニズム時代からポントス王国やボスポロス王国といったギリシャ人の王国が存在していた。そのため、ギリシャ人たちの王国の末裔がトルコの黒海沿岸やクリミア半島やドネツクに生き残っていても不思議ではないだろう。

ただし、マリウポリギリシャ人たちが現在のドネツクにやってきたのは主に十八世紀の終わり頃のようである。クリミアでの経済の問題、政治の問題、宗教の問題が絡んでいたと考えられる。

ロシア大百科事典によれば、ギリシャ人たちの入植がはじまったのは一七七八年に遡るとされる(1)。当時のクリミア半島にはクリム・ハン国が存在していた。オスマン帝国の保護下にあったクリム・ハン国はロシア帝国の南下政策に巻き込まれた。第一次露土戦争の結果、一七七四年にオスマン帝国はキュチュク=カイナルジ条約をロシア帝国と結んだ。オスマン帝国は帝国内のギリシャ正教徒の保護をする権利をロシア帝国に認め、クリム・ハン国の保護を手放すことになった。そして一七八三年にクリム・ハン国はロシア帝国に滅ぼされた(2)。

ロシア帝国のクリム・ハン国への干渉は経済的な弱体化をもたらした。それはクリミア半島に住んでいたギリシャ人やアルメニア人たちなど一八万四千人の正教徒のクリミア半島からアゾフ州(現在のロストフ州のあたり)などへの移住を招いた(1)。一七七八年にマリウポリが作られた(3)。そして、新しくできたマリウポリにギリシャ人たちが入植した。それはもっぱらウルム人が多かったとされる(1)。なお、クリミア・タタール語版のウィキペディアによると「一七七八年、エカチェリーナ二世の時代にクリミア半島からアゾフ海沿岸に追放された」との言及がある(4)。

Qırımdaki urum halqı 1778 senesinde çariçe II Yekaterina vaqtında Qırımdan sürgün etilip Azaq deñiziniñ yalısına yerleştirilgen.

Wikipedia "Urumlar" https://crh.wikipedia.org/wiki/Urumlar

戦争前の状態はよくわからない。民族音楽のアンサンブルの活動は豊富だったようだが、言語の保護についてはよくなかったことが推測される。このビデオによるとマリウポリ・ギリシャ人の子供たちは、学校でマリウポリのギリシャ人たちの言葉を学んでおらず、現代ギリシャ語を学んでいるようだ。マリウポリギリシャ人のキリキヤ・ハヴァナさん(Кирикия Хавана)によれば、「自分たちの言葉を書き表すアルファベットもないし、文法もない」とのことなので、文字化や標準語化が進んでいないことが察せられる。

マリウポリへ侵攻 始まる

現在の多民族国家ウクライナにおいて、マリウポリはウクライナのギリシャ人たちの文化的な中心地となっている。しかしながら、そのマリウポリにロシア軍がついに侵入し、街を砲撃しているとSNSで情報が流れている:

「マリウポリの通りにロシア軍の戦車が侵入。マンションに砲撃を開始している。インターネットは寸断された。このようなビデオを世界に見せたくないからだ。
ロシアはマリウポリをグロズヌイに変えるつもりだ」

皮肉なことにクリム・ハン国のギリシャ人たちがクリミア半島から出るきっかけとなったのはロシア帝国の侵攻であった。そして現在もロシアの戦車がマリウポリに侵攻し、そしてウクライナのギリシャ人たちは今はどうなっているかわからない。ウクライナへの侵攻は単純に国家間の紛争というだけでなく、少数民族の運命を左右する状況になっているのだ。

参考

(1)Большая Российская Энциклопедия" "МАРИУ́ПОЛЬСКИЕ ГРЕ́КИ" https://bigenc.ru/ethnology/text/2186217

(2)「世界史の窓」『クリム・ハン国』http://www.y-history.net/appendix/wh1001-161_1.html

(3)Официальный сайт Мариупольского городского совета"История Мариуполя" https://mariupolrada.gov.ua/ru/page/istorija-mariupolja

(4)Wikipedia "Urumlar" https://crh.wikipedia.org/wiki/Urumlar

写真 ID 237159109 ©Grotmarsel| https://dreamstime.com/




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