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机の上のふるさと

※これは超個人的思い出と言うか随想みたいなものです。

近くて遠い街

生まれ育った横浜を離れて既に半世紀を越えた。

小学校6年生まで過ごした街の古の記憶は、既に相当断片的になってしまった。

いつかまた歩いてみたい。そう思って久しい。

日頃、東京やら千葉やら埼玉やらに出歩いていることを思えば、ふるさと横浜は極めて近場だ。

でも、歩くことそのものを目的とした外出に慣れていない身にとって、横浜は近くて遠い街であり、「○○を見に行きたい!」とか「○○の店で食べたい」とかいった具体的な目的がないことには、重い腰は重いまま軽くなろうとはしてくれない。

ところが、最近はなんとも便利な時代になっているではないか。

パソコンでだって街歩きは出来る。(何を今更)

仕事でもプライベートでも、初めての土地に出掛ける時、今では事前に路線検索して交通機関をチェックし、目的地への最寄駅からの経路や風景をGoogle Mapで下調べしておくという癖がついている。

つまり、いつだってどこにだって「行ったつもりに」なれる訳だ。

更には、行先は日本だけに留まらず、Google Earthともなれば世界中を見て回れる。

以前だったら、隣近所の知らない土地に行くにも、地図を見たり時刻表を見たりして必要事項を頭に詰め込んでおく必要があった。

そのことを考えれば、なんてお気楽にチョイ旅出来る時代になったことだろう。

早速、パソコンにログインして昔の住所を検索すると、労さずして眼前にふるさとの地図が、そして航空写真が展開する。


リアルタイムじゃなくたって

バーチャル・ツアーなどというものがあると聞く。

遠く離れた地のリアルタイムの映像を眺めつつ、現地にいる案内人や住民たちとのコミュニケーションを楽しむ。

それはそれで楽しいだろう。

五感の全てが満たされずとも、視覚や聴覚は自らの感性で、味覚や嗅覚、触覚は、第三者を通して疑似体験することが出来るのだ。

でも、それはリアルタイムの経験とは似て非なるもの。人間の感性は繊細であり、誰かに代わりに体験してもらうことなど出来ないものだから。

ただし、ここでの目的はあくまでも懐かしいエリアの街歩きに他ならない。言い換えれば、視覚的な経験のみで十分目的を果たせる。

つまり、眼前に広がるこの風景こそが求めていたものなのだ。

もとより半世紀も経過した後の再訪である。眼前に現れる画像は、古くたって2、3年前のもの。リアリティ度のズレは誤差の範囲に十分収まるものだ。

それを見て感じる懐かしさにとっては、なんら問題のない誤差なのだ。


出生の地、小中学校、そして幼稚園

改めてディスプレイに目を遣る。

幼き日に住んでいた集合住宅。この世に生を受けてから小学校6年生の途中まで生活していたところ。

ただし、集合住宅は集合住宅でも、そこに表示されている画像は記憶とは全く異なるものだ。

なにせ古い建造物。もし、当時のままだったとしたら、差し詰め築70年弱といったところだろうか。

随分と前に建て替えが済んでいることは、時折り乗車するJRや京急の車窓から眺めて知っていた。

当時とは名称も変わり、棟数も階層も異なる現状。高さはさして変わらないけれど、間取り等は全く異なるのだろう。

よく遊んだ児童館や空き地はまるで見当たらない。周辺は全て宅地化されている。

なんたって半世紀だから。

兄が通っていた目の前の中学校。これも全て建て替え済みと見える。唯一、横浜の中心部とは思えない広々とした校庭だけが健在だ。

通っていた小学校はどうなっているのだろう。

ネット上の散策の利点。一気に移動できる。

こちらも当時の規模のまま、同じ場所に残っている。広い校庭もそのままだ。

当時の校舎は、戦時中に軍が使用していたと聞いていたぐらいに古いものだった。なので、当然の如く建て替え済みだ。

幼少期の記憶によるイメージは、正確なようでいてスケール感等において大人になってからのものとは随分と異なる。

幼い頃高いと思っていた崖が、今見ると大した高さではなかったり。

でも、この学校の場合は逆だった。周辺の住宅地と比べて随分と高い土地に建っている。

まるで城郭だ。

こんなに高低差があっただろうか。確かに校門に至る最後の直線は上り坂だったと記憶しているけれど。

それと校庭の遊具。スチール製のものは当然更新されているのだけれど、我が母校の歴史を象徴するコンクリート造りの構造物が見当たらない。

母校の名称は「市立浦島小学校」。そう、この辺りは浦島伝説の残る土地なのだ。

ちなみに、中学校の方は「浦島丘中学校」。ただし、「浦島小学校」の住所は「浦島丘」、「浦島丘中学校」の住所は隣接する白幡東町、集合住宅の名称には「浦島ヶ丘」といった具合に、このあたりの事情は昔も今もかなりの変化球だ。

話を戻すと、件の構造物は亀をモチーフにした遊具。校庭の北東端に海を向いて設置されていて、尾が滑り台だったと記憶している。

しかし、航空写真モードで確認してみると、あるにはあるが場所も大きさも異なるものだった。校庭の南東側に海を向いて置かれている。大きさも倍ぐらいになっていて、尾だけではなく4本の足も滑り台のようだ。

この記憶については恐らく間違ってはいないと思うのだけれど、場所も大きさも違う。やはり老朽化の結果の更新だろうか。

そして再びスタート地点に。小学校とは反対方向、日常の買い物をしていた商店街や、通っていた銭湯(住んでいた集合住宅には風呂がなかった)のあった方面に足を進めてみる。

記憶にある小さな崖はきちんとした法面になっている。当たり前か。宅地化が進んでいるのだから。

商店街方面に向かっては下り坂。ここで気付く。通っていた幼稚園がない。

この辺りは「七島町」。坂の途中に町名を冠した幼稚園があったはず。

何よりそこに通っていたのだから。

卒園した幼稚園の名前は間違えていないと思う。流石に間違えないだろう。

しかし、航空写真で確認しても見当たらない。

移転だとか園名の変更だとか、いろいろ想像しつつネット上で検索しまくったけれど、まったくヒットしなかった。

一体どうなったのだろう。よもや記憶違いでその名称では存在しなかったのか?自信が揺らぐ。

現地でなら聞き込み出来るかも。ネット散歩の限界を感じてしまう。

もっとも、現実に歩いて思い出の場所に辿り着ける自信もないのだけれど。


あの店この店

幼稚園の記憶の曖昧さですっかり自信を失ったけれど、商店街はどうだろう?

住んでいた住宅はその名のとおり高台の上。最寄り駅の京浜急行子安駅や当時横浜の代表的商店街のひとつであった大口通り商店街へは、いずれかの坂道を下りて行くことになる。

駅に行くには幼稚園(?)の脇を通って歩行者のみが通行出来る狭い坂を下りるか、眼下を走る国道1号線に直線的に向かう(寺院の正門に繋がる)急勾配の長い階段を下りるかだった。同じルートで通っていた銭湯にも行ける。

商店街に行くには、同じく幼稚園経由の坂道か、もう少し幅員のある別の坂道を下りるかだ。

駅までの道はネット上では追えなかったが、すっかり整備された駅前の商店街や駅そのものの外観は確認出来る。

途中にある銭湯は、当時は木造の趣ある造りだったが、いまや再建され近代的なスーパー銭湯的な風貌だ。

ここの息子は同級生だったと思う。後継ぎなのだろうか。

商店街の方も、当時のイメージと大きく趣を異にして変貌を遂げている。

個店の一つひとつまでは殆ど覚えていないが、数少ない記憶に残る店のうち、生まれて初めてサンマーメンを食べた(と思われる)中華料理店が店名も同じまま残っている。

昔からトリ好きだったのでペットショップの位置は覚えているが、おそらくはここだろうという店は店名の表示もなくシャッターが下りている。

大口通りに繋がる「曙通り商店街」は、最も買い物に通った場所と記憶しているが、商店街の名称は残っているものの、記憶に残っているスーパーマーケットは既に撤退しているようだ。

それは「相鉄ストア」。現在の「相鉄ローゼン」だ。

先日、片付け物をしていたら当時の紙袋が出て来た。懐かしいロゴに当時を思い出す。確か店の前には10円を入れると動く動物や乗り物の形をした遊具と、今は全く見なくなった上部にドーム状の噴水のような装置が付いていて飲み物が循環する飲料の自販機(解りにくい表現)が置いてあった。

曙通りを抜けた先にあった小さなスーパーは今はない。確か「ゆりストア」という名称だったと思う。

買い物でシールを貯めると商品と交換できるようなシステムが今でもあるが、その店では既に採用していたと記憶している。

「グリーンスタンプ」と「ブルーチップ」の二種類があり、そのスーパーはグリーンスタンプだったような気がするけれど自信はない。

横浜線の大口駅の前で、記憶にある大口通り商店街は終わっていた気がする。なぜなら、その先は先進都市の横浜と雖も田畑や雑木林が残る里山のような風景が広がっていたから。

余談になるが、当時は新横浜の駅は田んぼの中にポツンとあって、東横線の菊名駅との連携も不十分で、オリンピックを契機として新幹線が通って新駅が出来たものの、只管田園風景が広がっていたような記憶がある。

そう、横浜もちょっと中に入っていくと、まだまだ宅地開発が進んでいない状況だったのだ。

年代を考えれば当たり前かも知れないけれど。

心象風景

幼い頃の記憶は、強く印象に残っている部分を核として現実半分・イメージ半分で拡大・膨張して脳裏に焼き付くものだと思う。

机上のパソコンでネットから得る情報は、多少古かろうが現実に違いないけれど、当の本人の記憶は半分フィクションだったりする訳だ。

それを心象風景と称しても、大きく間違ってはいないだろう。

心象風景は、時として美化されていたり、また時としてデフォルメされていたり、現実とは大きく異なって然るべきものだろう。

いつか歩いてみたい生まれ育った街。

ネット上の散歩では味わえなかった郷愁や驚きを、きっと味わえるのだろうな。

「いつか」などと言っては結局行かず仕舞いになってしまいそうな気がする。

春になったら出掛けるかな。

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