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「な」⇒「あ」で、「ホ」⇒「こ」

自粛生活をしていると、好きな人に会いたいだとか、お酒を飲みに行きたいだとか、そんなことを考える。まぁ、これは普段の生活とあまり変わらない。

ただ、2ヶ月もこうしていると、そろそろ美容室に行きたいと思い始める。でも、ロングヘアだから切る必要はないし、髪色もそんなに明るくないから我慢できるなぁ、なんて躊躇して、思わぬところから、普段の生活が送れることの有難みを感じたりもする。その中でも、私が今、1番行きたいのは、博物館だ。

なんで博物館?と友達に聞かれた時、自分でも不思議だった。休みの日を使って美術館や博物館に行くこともあったが、どうしても博物館に行きたいという衝動は今までになかったからである。


自慢ではないが、私はくずし字が読める。博物館にある巻物や掛け軸、屏風を読むこともできるし、内容を理解することもできる。くずし字を読めるようになりたいという思いから、大学で日本語学を専攻しつつ、古文書学やくずし字の勉強をした。

しかし、最初はちんぷんかんぷんだった。平仮名が漢字を崩したものであることは理解できるが、何種類もあるうえ、「阿」という字をくずした「あ」は、どう見ても「な」に見えるし、「古」という字をくずした「こ」は、どう見ても「ホ」に見える。

何度も何度も「な」は「あ」!!で「ホ」は「こ」!!と頭の中で反芻しながら、課題をこなしていく。文脈で捉えると間違った覚え方をしそうで、この文脈だとこの平仮名が適切だと思うけど、私はこの平仮名に見える!といった旨のメールを何通も教授に送りつけては解説をしてもらった。

なのに、周りの学生の課題の正答率は私より高く、教授からは、「苦戦した痕跡が見受けられます。大丈夫です。最初はみんな分からないものです。」なんてメッセージが添えられていた。悔しかった。

えー、この学生の中に、絶対元の文章をGoogleで検索した人いると思うよ!それとも、みんな平安時代からきた人なのかもね!と心の中で悪態をついたりもした。

そんなこんなで私はくずし字が読めるようになった。博物館に行くと、ガラスケースに張り付かんばかりの近距離で巻物や掛け軸、屏風を眺める。思っていた通り、自分の目で文章を追って、内容を理解できたほうが、解説を読むより何倍も何十倍もワクワクするし、面白い。


こんな風に私が変なことにのめり込む度に、周りの人から、そんなことやって何のためになるの?そんなことできても無駄じゃない?と聞かれることがある。

その人たちに答えるとするならば、何のためにもならないし、無駄かもしれない。ただ私が楽しい、それだけだ。そして何より、無駄かもしれないことに本気で集中して、自分の時間を割くことができるのは、とてもしあわせなことだった。


ゆたかさとは何かと考えてみた時に、人が持ってる優しさとか心の在り方、それに伴う行動というものが思い浮かぶ人も多いと思う。そして、そのゆたかさは水面に落ちた1滴の露のように、周りに派生する。

私にとっては、それと同じくらいくずし字が読めることがゆたかに感じられる。周りに派生することもなく、一見何の役にも立たないだろうと思われる教養が、自分の見る世界を変えてくれることがある。


真にゆたかなものは目に見えないし、消えない。仮に家が火事になって全てのものを失ったとしても、一文無しになっても、私はくずし字が読める。そして、もし記憶がなくなってしまったとしても、またくずし字が読めるようになるまできっと努力する。

その過程も含めて、ゆたかに感じられるのだと思う。いろいろと落ち着いたら、どこの博物館に行こうか、いや、その前に美容室に行って髪を綺麗にしよう、なんて想像を膨らませる。うきうきしながらスマートフォンで検索をする指が止まらない、そんな今日の私であった。

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