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「サヨナラダケガ人生ダ」? 1歳の息子、バイバイを覚える

詩のソムリエが子育てのなかで考えた、詩のはなしをちょこっと。1歳になり、息子は「はーい」「どうぞ」など、少しずつコミュニケーションがとれるようになってきました。「バイバイ」を覚えた息子と、さよならについての名詩をめぐるあれこれ。

バイバイは突然に

息子、1歳0ヶ月。そのときは突然だった。「ばっばーい」(意訳:バイバイ)と言ったのだ。

『ばいばい』(まついのりこ・偕成社)という絵本を読んでいたときのこと。つぎつぎと動物があらわれては「こんにちは」「ばいばい」を繰り返す絵本だ。うさぎが「ばいばい」しているページを見て、「ばっばーい」と言った。(「こんにちは」には反応なし)

とっさに「わぁ!えらいねぇ」と笑顔で褒めたけど、心中では、「ついに『さようなら』を覚えたのか…」としみじみしてしまった。そして「勧酒」という漢詩が頭に浮かんだ。

さよならの名詩

唐代の「勧酒」(于武陵うぶりょう、8世紀ごろ)を知ったのは中学生だった。なぜか強く心惹かれ、ノートに何度も書き写し、今でもそらで言えるほとんど唯一の漢詩だ。短いなかに、真実がつまっている。

「勧酒」
勸君金屈卮
滿酌不須辭
花發多風雨
人生足別離

「酒をすすむ」
君に勧む金屈卮きんくつし
満酌まんしゃく辞するをもちいず
ひらけば風雨多し
人生別離足る

この詩を思い出すのは、ちょうど、寒の戻りで冷たい雨がざあざあと降っていたせいだろうか。花が咲いて、雨風が花を散らせてしまう。人生はそういうことばかりで、親しいあなたと酒を飲み交わすしかない。いつまた会えるかしれない「君」との短く満たされた時間と、さよならばかりの人生のコントラストも濃い。

なお、井伏鱒二の訳が有名(もしかしたら原詩より)。太宰治は酔っ払うとよくこれを口ずさんだとか。

コノサカズキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ

井伏鱒二『厄除け詩集』

原文の「人生別離足る」を、わたしは長いこと「人生とは別離である」(Life is "good-bye") だと勘違いしていたのだけど、「人生は別離がいっぱいだ」(Life is full of "good-bye")が正しい訳ということになる。それを「サヨナラ」ダケガ人生ダ と訳すのはかなり大胆な訳ではあるが、やはりこちらのほうが印象に残る…。妙訳といわれるゆえんである。

ちなみに、この訳の背景に、井伏鱒二が林芙美子とともに広島県・尾道へ講演にでかけた際のエピソードがある。

『左様なら左様なら』と手を振った。林さんも頻りに手を振ってゐたが、いきなり船室に駆けこんで、『人生は左様ならだけね』と云うと同時に泣き伏した。そのせりふと云ひ挙動と云ひ、見てゐて照れくさくなって来た。何とも嫌だと思つた。しかし後になつて私は于武陵の『勧酒』といふ漢詩を訳す際、『人生足別離』を『サヨナラダケガ人生ダ』と和訳した。無論、林さんのせりふを意識してゐたわけである。

井伏鱒二『因島半歳記』

仮のさよならと、本当のさよなら

息子は、楽しげに絵本のなかのカエルさんに「ばっばーい」と手を振っている。つけっぱなしのテレビでは、12歳の少年が、親友に会いにイギリスまで行って、またいつ会えるかわからない別れに涙をしている。

息子にとって、本当の「さようなら」が訪れるのはまだ先だろう。保育士さんやパパママと「ばっばーい」しても、また会えることが前提だ。それは仮の「さようなら」に過ぎない…

でも、「仮」にしているさようならだって、いつかあれが本当の「さようなら」だったと知るかもしれない。今生の別れと知って別れる場合のほうが少ないだろう。わたしも、本当の別れだと思いたくない別れをたくさん内包して生きている。そういう意味では、たしかに、人生は別離でいっぱいだ…。考えたくないけれど、息子との別れも、わたしの人生に織り込まれている。

人生がはじまるとき

喜びしか知らないような、息子のまっさらな心にも、いつか本当の「さようなら」が刻まれるだろう。だけど。

さよならだけが 人生ならば
また来る春は 何だろう
はるかな はるかな 地の果てに
咲いている 野の百合 何だろう
さよならだけが 人生ならば
めぐり会う日は 何だろう
やさしい やさしい 夕焼と
ふたりの愛は 何だろう
(中略)
さよならだけが 人生ならば
人生なんか いりません

「幸福が遠すぎたら」寺山修司

寺山修司は、「サヨナラダケガ人生ダ」をお守りのように大事にしつつも、こんな詩をつくっている。

人生がさよならに満ちていても、無意味ではない。むしろさよならがあるからこそ、「また来る春」「野の百合」「めぐり会う日」「夕焼けとふたりの愛」が輝くのだろう。10歳で父の戦病死、母の九州への出稼ぎ…と、幼いうちに重い「さよなら」を刻み込まれた寺山修司。それでも、人生は美しいと信じたい心の叫びが漂う。

わたしはこれまで、なぜ母親たちが「バイバイ」を子どもに覚えさせたがるのか、心底不思議だった。「バイバイ」できた子を見て、喜ぶ姿も。でも今ならちょっとその意味がわかる気がする。彼という一人の人生のはじまりなのだ。祝福しないではおれない。

***

これまでの「こどもと詩」シリーズ

① 詩のソムリエ、母になる (新川和江「赤ちゃんに寄す」)
② 鯉のぼりの、その先(まど・みちお「うさぎ」)
③ 生まれたての君(ウィリアム・ブレイク「行きて愛せ」)
④ 世界に用意された椅子(新川和江「わたしを束ねないで」)
⑤ 淋しいという字(寺山修司「Diamond ダイヤモンド」)
⑥ 詩のソムリエと子守唄(北原白秋「揺籃のうた」)
⑦ 出産の勇気をくれた歌(阿木津英「産むならば世界を産めよ」)
⑧ 思わず涙ぐんだ、「人生が1時間だとしたら」(高階杞一「人生が1時間だとしたら」)
⑨ 泣き声は近所迷惑?山村暮鳥の詩を読んでみよう(山村暮鳥「こども」)
⑩ ドキドキの赤ちゃん連れ乗車。まど・みちおの「おみやげ」を携えて行こう。 (まど・みちお「おみやげ」)
赤ちゃんのおしっこも、詩になる。千家元麿の詩から見える愛のかたち(千家元麿「小景」)

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