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遺伝子の要求と、どこで折り合いをつけるのか? (エッセイ)

《再勉生活》中に、
➀ 少ないサンプル数で集団特性を判断しない。
➁ 集団主義的な考え方をしない。

という姿勢を持とうと決めた話(↓)を書きました。

そのように意識していないと、「〇〇人は信用できない」というような、少ないサンプル数で集団特性を判断する《偏見》が忍び寄って来ます
また、上の記事にNoterさんからコメントをいただいたように、大谷翔平選手の活躍をわがことのように喜んだり、日本製品がほめられると誇りに感じる気持ちが、《自然》に湧いてきます

どうしてだろう?

それは、たぶん、我々の遺伝子に組み込まれているのでしょうね。そういう遺伝子を持ったご先祖サマたちが子孫を増やしていったから、という言い方が正しいのかもしれません。

専門家ではないので、あくまでも脳内の想像ですが:

遠い古代、ある部族が別の部族に遭遇した時、家畜や肥沃な土地をめぐって争いとなり、自分も含め、自分に近い遺伝子を持った部族が全滅してしまう危険があったことでしょう。
従って、「初見」の人間、特に肌の色が違っていたり、異なる服や装飾品を身に着けていたり、理解できない言語を話す人間を見かけた時は、注意深く観察して、その《個体》のふるまいなどから、この《個体》の特性を《集団》特性の《代表値》として捉え、警戒したり、あるいは直ちに相手を攻め滅ぼす判断をくだす──そういった《偏見》を素早く持てる人間の遺伝子が、後世に残りやすかったのかもしれません。
特に、部族のリーダーの資質として、そうした《偏見》を持ち、《偏見》に基いた判断をする能力は重要だったのでしょう。

「いやいや、あの部族の中にもいろいろな個性を持った人がいるのだから、そんな《偏見》を持ってはいけない」
などと他のメンバーを戒めるような(今でいう、《個の多様性》を認めるタイプの)リーダーは、大きなリスクまで引き込んでしまい、部族は滅び、彼/彼女の遺伝子は後世に残らなかったのかもしれません。

《集団主義》に関しても、
「俺たちゃ、一蓮托生だい! One for all, all for oneだ!
という体育会キャプテン系リーダーに率いられた部族が、チーム一丸となって戦った結果、他の部族に勝利する──という時代が長く長ーく続いたのでしょう。

その結果、人類史上でいえばごく最近、戦い方がより個別戦略的になったり、《集団》の大きさが、「全員が顔見知り」の《小さな部族》から、「ほとんどの人とは会ったこともない」という《国家》のような巨大なものに変貌しても、相変わらず、遺伝子は、
「One for all, all for oneだ!」
と叫び続け
、私たちはサッカーのナショナルチームがゴールを決めると、
「よし、やったぜ!」
とまるで自分が決めたかのようにガッツポーズをするのでしょう。
いや、そもそも、サッカーのような《チーム競技》でメンバーが力を発揮する根本には、そんな《古代部族的集団主義》の遺伝子が働いているのかもしれません。

「じゃあ、その遺伝子に従うのが《自然》なんじゃないか?」
──そうですよね。
「じゃあ、遺伝子に従ったって、何の問題もないじゃないか?」
──いや、それはどうでしょうか。

我々の生きている環境は、長く長ーく続いた、部族生活のそれとはまったく異なってしまいました。
ひとつだけ例を挙げると、その部族社会のリーダー(♂と仮定しましょう)には、たぶん何人もの生殖相手(♀)がいて、子孫を増やし、遺伝子を引き継がせたことでしょう。敵方の部族を征服した時には、無理やりにでもそうしたことでしょう。

中央アジアから東アジアにかけての現代人のY染色体を調べると、そのかなりの割合が特有の型に帰着できるといいます(チンギス・ハンの持っていたY染色体と言われているそうです;この人などは、小さな部族のリーダーから巨大国家の長にまで駆け上がったヒトですよね)。

しかし、現代の多くの環境では、コレ関連の遺伝子の言う通りに♂が行動すると(アラブの大富豪なら別ですが)、けっこう困ったことになってしまいます。

遺伝子が「やっちまえよ!」と要求してくる、それ以外の事柄に関してもそうでしょう。
ひょっとしたら、深刻な問題になっている「ヘイト・スピーチ」なども、古代部族時代に生き残った《集団主義》遺伝子が、未だに人々をコントロールしているのかもしれません。

だから、大なり小なり、現代に生きる我々は、古代から受け継がれた遺伝子の主張をある部分抑えながら、社会に適応していくことになります。
ある人は法に反しない限りの最小限の抑制で、ある人は自分なりの規範を作って。

例えば、私は、オリンピックの《団体種目》について、下記のように考え、個人的な規範としています。
《団体競技》であることが必然である、サッカーやバレーボールなどは、おそらくは遺伝子のなせる《自然に任せ》、その結果として、ナショナル・チームを応援することが多い。
けれど、体操やフィギアスケートのように、本来個人競技である種目を《団体競技化》するのは、《国家主義》と《商業主義》を優先した結果であり、結果として、ナショナリズムを《不必要に》煽っている、と考えています。

つまり、後者において、《集団主義》遺伝子のなすがままに任せるのは、どうなんだろうか? と疑問に思っています。
「ヘイト・スピーチ」を野放しにするのと同じ、とまでは言いませんが。

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