20代を振り返る(前編)

昨日、誕生日を迎え、ついに30歳となってしまいました。
「30歳」という年齢にどれだけの意味があるのか、というのは一旦横に置いておいて、もう30年も生きているという事実に驚くばかりですね。

ここ最近、過去を振り返るという機会があまりなかったので、この機会に便乗して、この10年くらいを振り返ってみたいと思います。なぜ10年かというと、30年振り返るのと量が膨大になって大変だし、そもそも最初のほうなんて記憶にもほぼ残っていないからです笑 あと、20代の10年間って、自分にとっては大きな変化の10年間だったため、ちょっと整理してみたいと思ったからです。長くなりそうですが、お付き合いください。

20歳(2013年、大学1~2年)
はっきり覚えているのは、僕の二十歳の誕生日って、成人の日だったんですよね。この偶然の一致になんとなく面白さを感じていながらも、気分はものすごく暗かった覚えがあります。当時の自分は主に吃音で自分の名前すらろくに言えないことに絶望し、どこの場所にも顔を出すことができず、バイトもせず、部活動やサークルにも所属せず、家と大学を行ったり来たりするだけの毎日を過ごしていました。誕生日の前日に、「二十歳の会」と称する小学校の同窓会があったのですが、他のみんながいろんな活動に勤しむ中、自分は本当に何もしていないという事実に対して、深い絶望を感じたとともに、「人とかかわるのが怖い」「周囲に追いつける気がしない」という八方塞がり感がありました。正直に言うと、この頃に生じた深いコンプレックスは、今も自分の中に深く根付いており、「人が怖い」という感覚は、30歳になった今でも全く抜けていません。
ただ、自分にとって救いだったのが、少数ながらも自分に関わってくれた大学の友人であったり、予備校時代の友人たちでした。当時は本当に一日たりとも鬱屈しない日はなかったくらいの毎日でしたが、おかげで大学に通い続けることはできたし、少なくとも真に孤独というわけではなかったんだな、と今は思います。
あと、複雑ではあるのですが、この頃に、コミュニティに所属しないことの寂しさを覚える反面、人の集まりから距離を置いて一人でいることの気楽さみたいなのも覚えてしまったという一面も否定はできません。今でも時々、あの頃みたいに一人になりたい、といった思いがフッと沸いてくることがあります。人とのかかわりは楽しくも苦しくもあるという二面性を、身をもって実感しました。
ちなみに、当時は漠然と臨床心理学を学びたいと思って人間科学部に入学したのですが、ろくに勉強する気力がわかなかったのと、自分が学びたいことがいまいち整理されていなかったため、年の後半で行われた面接試験で落選し、臨床心理学のゼミに入れませんでした。その後、仕方なく生涯教育学のゼミ(ジェンダーを中心に、差別や人権をテーマとする分野)に入ったのですが、この出来事が後にすごく重要な転機となることが、当時の自分では想像もつきませんでした。

21歳(2014年、大学2~3年)
大学3年生になった年。3年生にもなってくると嫌でも「就活」というワードが周囲で飛び交うようになってきます。当時の自分はというと、「そもそも自分の名前もろくに言えないのに、採用面接なんて通るわけがないだろう」と思い込んでいたので、最初から就職に希望を持っていませんでした。というよりも、ライフプランを考えるという発想すら沸いてこないので、一周回って危機感もなかったような感じでした。(どうせどっかで破滅するやろうし、考えても仕方ない、ぐらいの感覚です。)
とはいえ、何もしないのはマズいと思い、「筆記試験で点数を稼げれば、なんとかなるんじゃないか」という安易な発想で、公務員試験を受けることに決め、この年の後半ぐらいから勉強を始めました。幸いにも勉強するのをあんまり苦に感じないタイプではあるので、それなりに楽しめていたし、「とりあえず何かしている自分」を作ることができ、ちょっとだけ精神の安定を保てていたように思います。でもこれも、将来のためとか、自己研鑽のため、とかではなく、逃げの選択肢でしかなかったというのが正直なところですね。
ちなみにこの年、卒業論文のテーマを「幸福感」にすることに決めました。今になって考えるとちょっと香ばしくなるくらいの拗らせっぷりではあるのですが、本当に毎日のように「幸せってなんだろう」みたいなことを考えていた記憶があります。
でもこの頃、他人が求めるものではなく、「自分基準の幸せ」を満たせていればいいのではないかと考え始めていて、それが今の自分にとっても礎になっている考え方なので、それなりに吹っ切れてきていたんだと思います。以下、ちょっと恥ずかしいのですが2014年夏のある日の自分のFBの投稿です(笑)

自分なりに生きるっていうのは大事やと思う。他者の基準とか、一般的な基準とか気にしたら別に欠点でもないものも欠点に思えてくるし、自分に対して無理な要求を与えてしまう。「他の人からみたらクソみたいなものやけど自分なりには満足」でいいような気がする。もちろん他者の目を気にすることで自分を高められるんやったらそれはいいことやとは思う。でも、それで自分を苦しめるだけなら、自分基準で考えた方がマシ。その方が楽やし、余裕を持って自分のこと考えられる。最近そんな風に考えるようになりました。

でも、本当の意味で吹っ切れるのはもう少し先の話。

22歳(2015年、大学3年~大学4年)
ついに就活が始まりました。でも、民間企業だと筆記試験のアドバンテージが取れないので、あろうことか公務員試験一本で就活を行っていました。
結果はというと、筆記試験は一つを除いて全部合格で、面接試験は全落ちでした。まあ、学生生活で力を入れたことが何もないので、当然の結果だろうなと思いますし、落ち込むというよりは、なんか就職先が決まらなくてホッとしたみたいな安心感がありました。今になって思うと、このマインドで正直受かるわけがないんですよね笑
ただ、落ちたとはいえども、面接を最後までやりきったことは自分にとって自信にもなりました。この頃の面接では、吃音のことをオープンにし、それを話のネタとしていたので、ある意味、その後の「吃音語り芸人」の基礎がここで身についたのではないかと思っています(笑) そういう意味では、就活は意外と苦しくなかった、というのが印象として残っています。(ただ、二度とやりたいものではない。)
就活を終えた後、親からのアドバイスもあって、大学院に進学することにしました。でも、大学の4年間、公務員試験を除けば、まったくと言っていいほど勉強していなかったので、院試もゼロから勉強する必要があったし、何より研究したいテーマも全く考えていませんでした。そこで、ふと考えたのが、「吃音をテーマにしたら面白いんじゃね?」ということでした。そこで、いったん「吃音」をテーマにして急いで願書と研究計画書を書いて提出しました。
残りの期間は卒論を書いていたわけですが、当時心理学と社会学の違いすら分かっていなかった自分が、当然ろくな卒論を書けたはずもなく、後に指導教員の先生に「微妙」と言わしめるレベルの論文しか書けず、先行きは不安でしたね…(論文なのに、幸せとは自分次第、みたいなことしか書けていなかった気がする。読み返してもいないので忘れましたが。)とはいえ、当時の数少ない友人からインタビュー相手を引き受けてもらい、何とか書き上げたという意味では、自分なりの集大成にはなっていたんだろうなと思います。

23歳(2016年、大学4年~修士1年)
23歳になった1か月後くらいに、院試がありました。上でも書いたように、当時は心理学と社会学の違いすら分かっていないところからのスタートだったので、1か月で一気に知識を詰め込んだ記憶があります。自分の所属していたゼミは、差別や人権について深く掘り下げて考える分野だったのですが、この院試の勉強をしていた時に、さまざまな考え方に出会いました。中でも「吃音を治すのではなく受け入れる」「障害は個人問題ではなく、社会の問題である(障害の社会モデル)」の2つの考え方は、自分にとって価値観を丸ごと転換されるぐらい印象的でした。(というか、大学の授業を真面目に聞いていればこの発想にすぐたどり着けるはずだったんですが、この時になって初めて気づいたのがなんとも自分らしいように思います。)
無理に自分を変える必要もないし、別に自分だけが悪いわけじゃない。その発想を身につけた瞬間、みるみるうちに活力が湧いてきました。
大学院での勉強は苦しくも楽しいものでした。修士1年のうちに必要な単位を取り終えてしまおうと思っていたので、講義を詰め込みまくって、毎日のように朝から夜まで大学に籠りきりだったのも良い思い出です。研究室の仲間も、比較的価値観が近い人も多かったので、居心地もよく、本当に幸せな1年間だったなと思います。助教の先生からも「目が輝いてる」とよく言われたことを覚えています。全く何も知らないところからのスタートだったので、日々知識が更新されていくのも新鮮でした。
また、この頃から、研究の一環という意味もあるのですが、吃音の自助団体に通い始めました。吃音のことを当たり前のように話題にできるという環境が、何よりも衝撃的でした。と同時に、コミュニティというものに初めて参加したのがこのときでした。当時は何もかもが新鮮でした。
大学院への入学は、ある意味で自分にとっての本当のスタート地点だったように思います。それ以前はスタート地点にすら立てていなかったんじゃないかと、今では思います。

24歳(2017年、修士1~2年)
2度目の就活の年ですね。正直言うと、院生活が楽しすぎたので、このまま院に残るのも良いかなという思いもあったのですが、やはりいろいろと出遅れていたこともあって、修士2年になった段階で全く研究の道筋が立っていなかったことと、将来的な安定性も考慮して、就職活動をすることにしました。今回は前回と違って、公務員試験+民間企業数社を受けました。
とはいえ、相変わらず好きなことしかやってこなかったため、面接の結果は悲惨なものでした。(まあこのあたりで自分の問題が実は吃音だけではないことに薄々気づき始めるわけですが…)いろいろ受けましたが、合格したのは1社だけ。今働いている職場ですね。
この会社、とある大企業の特例子会社(大企業の障害者雇用率を満たすために設立された、障害者雇用に特化した会社)なのですが、当時の自分の障害観が企業にマッチしていると思われたからか、採用されました。(実際には全然マッチしていないのですが、それはこの際まあ良しとします笑)そんなこんなで無事就職先も決まったわけですが、相変わらず、一般社会でやっていけるわけがないという自己否定観はずっと残っていましたので、内心それほど喜べてはいなかったですね。実際この感覚を、後に何年も引きずることになり、労働生活の苦しみを味わい続けることになります。
それは横に置いておいて、学生生活最後の課題となる修士論文をこの年の後半から執筆し始めます。これについては、過去にないくらい全力で取り組みましたし、当時の指導教員と何度もやり取りをして苦しみながらも書き上げました。この2年で学んだことを全部詰め込みたいと思った結果、14万字にわたる修士論文が完成しました。テーマは「当事者の視点から構築する吃音症の社会モデル」というもので、吃音を医学的な治療や教室の中での教育という観点からではなく、社会課題・全人類の課題として捉え直すという試みでした。当時の自分はこれでもかというくらい尖っていたので、今までにない吃音観を自分で新しく作り上げてやる、ぐらいの気持ちで論文を書いていました。提出日の直前まで徹夜して書いたのが記憶に新しいです。その後、倒れるように研究室のソファーで寝ていたのもはっきりと覚えています。そして、この修論が後に自分といろんな人をつないでくれるきっかけとなりました。

ここまで5年分書き上げましたが、長いのでここまでを前編としていったん切り上げます。なんとなくまとめるとするならば、20代最初の5年間は、まさに吃音と向き合う5年間だったんだなと整理して分かりました。それが後半の5年間では、本質は変わらないものの、ちょっと違った課題と向き合うこととなります。

後編もよろしくお願いします。


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