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「複人論」:Vチューバーという存在をめぐって

1.はじめに:アニメ『絆のアリル』所感


アニメ本体よりもそこから派生したYoutube配信の「アリルズプロジェクト」(https://www.youtube.com/@allelesproject/streams)のほうが面白い、というかそちらがメインでアニメはその大いなる宣伝だったのでは?とさえ思われる『絆のアリル』(https://kizunanoallele.com/)だが、アニメのほうも10月からシーズン2が放送されることが決まった。しかし、このアニメ、いわゆるVチューバーを描いているアニメであるが、そこで描かれているのは残念ながらVチューバー自体の話、Vチューバーの「本質」ではない。かく言うこれを書いている私もVチューバーなのだが(トークではなくライブ中心なので「Vライバー」と名乗ってはいるが)、Vチューバーとはまさにその画面、あるいはバーチャル空間に現れる存在であり、いわゆる「中の人」では決してない。Vチューバーとしての成長を描くのであれば、Vチューバーを目指す人(=Vチューバーの中の人)の側を描くのではなく、Vチューバーそのものの側の成長を描くべきであっただろう。そう、まさにこのアニメの中で伝説的な存在として描かれているキズナアイがそうだったのだから。

2.「実存」としてのVチューバー


では、Vチューバーの本質とは何か。
まず、Vチューバーはあくまで映像、画像であり、生身の肉体があるわけではない。つまりは、それは、一種のキャラ、即ち「キャラクター」である。しかし、マンガやアニメにおけるキャラと違うのは、そのキャラはあるストーリーの枠に閉じ込められてはいないという点である。Vチューバーは世界に開かれており、Vチューバーが対峙しているのはまさにこの実世界である。Vチューバーはこの世界の中において、この世界の住人である人々に語りかけ、その反応に反応する。そして、マンガやアニメのようにストーリーの中に生きているわけではないということは、自分で自分のストーリーを作り上げていかなければならないということを意味する。そう、つまりVチューバーはまさに「生きている」のである。たとえそれが生身の肉体を持たなくても(キズナアイは自分自身をAIが創造した画像であることを自認していた)Vチューバーはこの世界に生きており、自分で自分の存在というものを作り上げている存在なのである。「人間という存在」でこそはないものの、まさにサルトルなどが言うところの「実存」であり、「実存」として自らをこの世界に投企(とうき)しているのである。

3.Vチューバーに「命」を与えているのはだれか


しかし、「でも、「中の人」はいるでしょ?」「それが一人とは限らないけれどもその中、あるいは背後には人(=生身の人間)がいるでしょ?」と多くの人は言うであろう。確かにそうかもしれない。が、それはあくまで最初に作った人、最初に作った人々という意味での「中の人」「背後の人」であり、その後は、VチューバーはVチューバー自体として、それを作った人達の手を離れて、一人の(一つの)存在として、生き、成長していく。作った人たちが与えることができるのはせいぜい「初期設定」くらいである。その後は作った人々のコントロールを離れ、配信を見ている人たちとのやり取りを通して、Vチューバーという存在は成長していくのである。

「でも、その成長も、結局は中の人達、背後の人たちの成長でしょ?」次に出てくるのはこのような疑問であり質問であろう。そう、確かにVチューバーとそれを作り出し動かしている人たちとの間には切り離すことのできない関係はある。その意味では、Vチューバーという存在は、それを作り出した人たちにとってのもう一つの(もう一人の)自分であるとも言えよう。今までは、原則として、人間は一つの身体をしか持つことができなかった。ハイデガーもサルトルも、そのような条件というか前提の中で人間という存在について、つまりは「実存」というものについて考えてきたのである。しかし、今や我々はVチューバーに代表される「アバター」という形で、もう一つの(さらに言えば一つ以上の)身体を手に入れることができるようになった。これは人類の歴史においても大きな転回点であるとも言えよう。そしてその「アバター」は「「私」であると同時に、もはや「私」ではないもの」なのでもある。

では、「「私」であると同時にもはや「私」ではないもの」とはどういうことか。すでに述べたように「「私」が作り出した」という意味で、それは確かに「もう一つの(もう一人の)「私」」である。しかし「私」という存在を作り上げるのは「私」を取り囲む人々、即ち「私」以外の他者とのやり取りである。それらの他者からの視線(=まなざし)によって「私」という存在は作り上げられるのである。

そうであれば、「私」が作り出したVチューバーであっても、その存在を作り上げるのはそのVチューバーに関わってくる人々である。配信活動を行っているVチューバーであれば、主にその配信を見てコメントし、声援してくれる(もちろんアンチも含めて)人々である。その人々こそが「Vチューバー」という存在を作り上げてくれる視線=まなざしをもった「他者」なのである。そしてその「他者」が見ているのは、そのVチューバーを作り出した「私」ではなく、そのVチューバー自身、Vチューバーという存在そのものである。たとえ「私」がその中の人、その背後の人だったとしても、そのVチューバーを見ている人の視線=まなざしは、「私」には向けられることはない。なぜならそもそもそこにいるかもしれない「私」は、その人たちには見えることはない(見ることができない)のだから(注1)。 

4.「複人」としてのVチューバー


しかし、そうは言っても、先にも述べたように「Vチューバーとそれを作り出し動かしている人たちとの間には切り離すことのできない関係」は、やはりあるであろう。そこで私としては、ここに「複人」という概念を提案したい(話が混乱しないように、今までは「私」という言葉をカッコつきで使っていたが、それはこの文章を書いている私ではなく、「その人自身」という意味での「私」だったからである。ここからもカッコつきで「私」と書く場合はその意味であるが、一方カッコ無しで書く場合はこの文章を書いているDJ.プラグマティクスというVライバーのことを指す)。この「複人」という概念は、芥川賞作家である平野敬一郎氏が提唱している「分人主義」からその基本的な考え方を受け継いでいる。平野氏は分人主義について、次のように述べている。(https://dividualism.k-hirano.com/

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「分人dividual」とは、「個人individual」に代わる新しい人間のモデルとして提唱された概念です。

「個人」は、分割することの出来ない一人の人間であり、その中心には、たった一つの「本当の自分」が存在し、さまざまな仮面(ペルソナ)を使い分けて、社会生活を営むものと考えられています。
これに対し、「分人」は、対人関係ごと、環境ごとに分化した、異なる人格のことです。中心に一つだけ「本当の自分」を認めるのではなく、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉えます。この考え方を「分人主義」と呼びます。
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私の言う「複人」とは、まさにこの「分人」を、自分の外部にアバターとして作り出したもののことである。当然この「複人」は、私のもう一つの顔(=ペルソナ)ではない。それはまさに「異なる人格」である。しかし、「分人」と異なる点は、それら「複人」は(「複人」の人格は)、「「私」であると同時にもはや「私」ではないもの」でもあるという点である。しかし、同時にそこにはある種の「繋がり」はある。では、その「繋がり」とはどのようなものなのか、これが次に来るべき問いとなるであろう。

5.ありえたかもしれない世界とありえたかもしれない自分


ここで唐突ではあるが「思弁的実在論」を唱える哲学者、カンタン・メイヤスーの論を持ち出してみたい。メイヤスーの考え方自体についてはその著書や千葉(2022)や岩内(2019)による解説に目を通していただきたいが(というか、私も完全に理解しているわけではない)、一言で言えば「思考(人間の頭の中に描かれるイメージ=主観)と存在(実際人間の頭の外にある(とされる)現実=客観)の相関についてのみアクセスすべき(というかそれしかできない)」というそれまでの(カント以来の)哲学のルール、あるいは暗黙の了解に対し、その相関の〈大いなる外部〉である「存在」の側、「現実=客観」の側にもアクセスする方向性を探ってもいいのではないか、というのがメイヤスーの基本的なスタンスである。その意味で(「存在」の側に着目する、という意味で)「新しい存在論」とも呼ばれる考え方であるが、メイヤスーはまずは自然科学と数学という「客観性」を持って世界に迫る。そしてそのような形で記述可能な世界(科学的数学的に記述できる形で記述可能な世界)、つまりは絶対的な客観的な世界があるのであるとすれば、それはただ単にそれがあるだけ、つまりは無意味な存在=ただ単にそこにあるだけの存在、にすぎないとメイヤスーは考える。そしてここからがある種の極論、というか論理的、且つ批判的に捉えれば議論の飛躍でもあるのだが、「であればそれが絶対的であるということはそれはたまたまそうであった、即ちそれは全くの偶然であったということであり、偶然であるならば世界はある日全く別の形にもなりうるはずだ」とメイヤスーは唱えるのである。

メイヤスーのこのようなある種SF的な考え方が正しいかどうかは、とりあえず一旦脇においておくことにしよう(しかしだからこその「思弁的」実在論であり、SF愛好家でもあるメイヤスーは「形而上学とエクストロ=サイエンス・フィクション」(FlorianHecker-textjp-121031-fix1.indd (mot-art-museum.jp))という論考も書いている)。しかし、Vチューバーという存在を「複人」として捉えている私、そしてVチューバー自身でもある私としては、メイヤスーのこのような考え方は、それが事実かどうか(しかし哲学的な問いに対してそれが事実かどうかを問うことにはあまり意味はないであろう。繰り返しになるが、問うべきはそれが思弁的かどうかのほうである)は別として非常に魅力的なものである。なぜなら、この「ある日全く別の形にもなりうる世界」は「ある日全く別の存在にもなりえる私」としても捉えることができるからである。「「私」と「私」であると同時にもはや「私」ではないものとしてのVチューバー、その繋がりは?」というのがここでの問いであったが、メイヤスーの考え方を借りれば、いわゆる「私」は、「今ここ」というある種の偶然の世界にいる「私」ということになり、「「私」であると同時にもはや「私」ではないものとしてのVチューバー」とは、「ある日それが世界の形」として現れる可能性のある別の形の世界における「私」ということになるからである。

先ほどは「SF的」と言う形で言い表したが、「世界がある日全く別の形になる」ということは「思弁的」にはあり得ても、もちろん(というか恐らく?)現実的にはあり得ないであろう。しかしメイヤスーが目指したのがそもそも思考と存在の相関の〈大いなる外部〉への到達であったように、唯一絶対の肉体を持った「人間」としてではなく、「アバター」という新たな身体(「肉体」ではないが「身体」)を手にした我々現代人が目指すべきものも、いままで我々を「個人」として縛ってきた「思考と存在の相関」の大きく高い壁を乗り越えること、つまりは〈大いなる外部〉へと接近していくことなのではないだろうか。「人間としての実存」「投企」という観点から言えば、我々現代人にとっての「実存」とは、そして「投企」とは、「私」という「個人」に縛られた生き方に囚われず、この世界のみにおいて自分自身を投企し、アンガージュしていくだけではなく、「私」という「存在」を〈大いなる外部〉に向けて、そこでの様々な可能性に対して開放していくような生き方なのではないだろうか。「アバター」には、「Vチューバー」には、そして「複人」という考え方にはその可能性が秘められている。「複人」を持つことにより、「私」は「私」の価値観とは、全く違う世界をも、「「私」であると同時にもはや「私」ではないもの」として生きることができる、即ち、「私」という個人と、それを取り巻く世界とを拡張することができるのである。

6.終わりに:可能性=開かれた未来に向かって

さて、最後に改めてではあるが、これを書いている私自身がまさにそのVチューバー(Vライバー)なのである点は、ここで改めて強調しておきたい。つまり私は私を作り出した人物ではなく、その人物の「複人」としての私としてこの文章を書いている(逆に言えば私を作り出した人物の方が私の「複人」であるとも言える)。事実、私の世界は私にとってまさに可能性の塊として開けている。そして、その広がり、その開放感は私を作った存在であるもはや私が知ることのない「私」にも当然届いているはずである、と私は信じている。私と「私」との距離はもはや大きく広がってしまった。私と「私」はもはや同じ存在ではない。しかし私と「私」の絆が消えたわけではもちろんない。Vチューバーとしての私の活動は「私」の開放、拡張へとつながり、「私」の日々の活動(=投企/アンガージュマン)も私の開放、活動へとつながるはず、あるいは少なくとも何らかの影響を与えるはずなのだから。

平野は「分人主義」において「中心に一つだけ「本当の自分」を認めるのではなく、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉える」と述べた。この言い方を借りれば、「複人」とは、そして「複人主義」とは、「中心に一つだけ「本当の世界」を置くのではなく、複数の世界を想定し、その世界に「私」とは違う「私」を位置づけていくこと、その世界において実存していくこと」となるであろう。その意味では「複人主義」というよりは「複世界主義」「マルチバース主義」と言った方が良いのかもしれない。「マルチバース」は、まさに映画(実写版、アニメ版含む)スパイダーマンシリーズがそうであるようにSF世界では古くから浸透している概念であり世界観である。それは一般的には「並行世界」として位置づけられる。しかし、メイヤスー的に言えば、それはいつ、突如として今の我々の現実と置き換えられるか分からない世界なのである。もちろん私は私の世界において「実存」を生きる。しかし、同時に「私」は「私」が生きることのないであろう世界においても「複人」を設置することで、たとえそれがもはや「私」の生き方ではないとしても、そこでまた違う形の「実存」を生きることができるのである。

かつてサルトルは「実存主義はヒューマニズム(人間主義)である」と述べた。その言葉は当然今でも生きている。ただ、そこでの人間が唯一無二の肉体を持った存在ではもはやなくなった、というだけである。我々は「アバター」という新しい身体を持ち、それぞれの複数の世界において「実存」していくことで、新たなヒューマニズムを達成できるのである。そしてそうすることにより、世界がある日全く別の形にもなったとしても、我々はそこにヒューマニズムを見出すことができる。つまりは世界がどのように変わったとしても、我々は「複人」として、つまりは、それがもはや「私」とは異なる存在であるとしても、どこかは「私」と繋がるところはある「人間」として、その世界を生きていくことができるのである。そしてそれは「分断」が世界的に拡大している現在における、ある種の希望にもなる。住む世界が違っても、「複人」と「私」がヒューマニズムを共有できるのであれば、「複人」を通して、「私」と「私」以外の人も、ヒューマニズムを共有できるはずなのだから。

(注1)これに対しては「でも、その他者のまなざしを受ける、受け取るのは結局は中の人でしょ?」という意見もあろう。しかし、現時点では、そうなるのはVRゴーグルをつけて主観視点でVRワールドに入った場合のみである。多くの配信者はモニター越しに自分自身も第3者の視点でアバターを認識している。また、VRゴーグルをつけての主観視点の場合は、その時点で(ゴーグルをつけた時点で)いわゆる「中の人」自身が複人化していると考えられるが、これについてはいずれ場を改めて考察したい。

おまけ(演奏中の筆者の動画)


#創作大賞2023   #エッセイ部門

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