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「対話」についての自己紹介①学校と対話

私と「対話」との出会いについて
ふと書き留めておこうと思いました。
私にとって、今では
無くてはならないものとなった
「対話」ということについて。

私の「対話」前史

私が「対話」へと歩き始めた、その始まりは何だっただろう…

私の人生の「対話史」のようなものがあるとして
その歴史を仮に「対話前」「対話後」と二分するとすれば
その前史には何があっただろうかと考えてみる。

そこにまず思い出されるのは
幼い頃通っていたキリスト教会での
「教会学校」という時間です。

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ある「教会学校」の話

キリスト教会(主にプロテスタント)には
聖書について学ぶ「教会学校」という時間が
あったり(無かったり)します。

私が通っていた教会にもありました。
「おとな」のクラスと「こども」のクラス

私がいた「中高生」のクラス
いつも通っている生徒は
私ひとり。先生もひとり。

そこは
先生から投げかけられる質問に対して
聖書から「正答」を見つけ出すという
「学校」でした。

対話のようで「対話」ではない。

それならいっそ
一方的に教え込んでくれた方が楽だった

そんな
私にとっては苦しい時間、苦しい場所でした。
いま思えば、どうして通い続けていたのでしょう。

でも今となってはこれは
紛れもなく私にとっての「対話」前史。

「反面教師」のようにして
私のなかに大切に残っている経験です。

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中学時代

仲のよい友だちと
学校の「相談室」に入り浸っていました。

教室に居場所が無かったわけではないのですが
「相談室」が
そして、そこにいた先生が
私にとっての居場所だったのです。

おそらく私が人生ではじめて
心に「対話」の感覚を味わうことができた時間
場所がそこにありました。

今でもその先生(もうおいくつになられたのでしょうか)とは
よき「対話」の友です。

私が教師を志したきっかけ。

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高校時代

教師を志しながらも
どれほど真面目に勉強をしていたでしょうか。

そんな中
そこでであった恩師からいただいた言葉は
今でも私の「対話」の中に息づいています。

「教育」 Education の語源はラテン語の Educere「引き出す」という意味。教育とは、相手の内側にあるものを「引き出す」こと。

実は、この語源の説明は誤りだと言われています。

参考:「教育の語源に「引き出す」という意味はなかった件」
http://ikuji-hoiku.net/educare_wp/staffblog/2005.html

それでも、私が教育者として立つ上で
また人と「対話」する上で
大切にしている言葉のひとつです。

相手の内側にあるものが
自分の内側にあるものが
引き出されていく

そんな瞬間を
嬉しく感じる私です。

(続く)


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