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ぐちゃぐちゃのお話

脈絡も話の筋もなく頭に押し寄せる思考の嵐です。自分の経験や主観に基づく発言ばかり。書き出さないと頭が爆発しそうなのです。なんとか読めそうな形にして目次をつくりました。なお、項目の順番は優先度を示すものではありません。時々追記します。

日常生活・しあわせについて

しあわせの概念は時としてナイフに変わるから、それで内心を抉られながらも微笑みを浮かべて「よかったですね」と言えるひとに国民栄誉賞や金メダル並みのなにかが贈られるべきだ (べつに賞やメダルを軽視はしてないです、本当に素晴らしい人は讃えられるべきだし、メダルも一部の人にとっては名誉で特別なものなんだなと思う) 賞もメダルもただの例えで、がんばっているひと一人一人が報われてほしいって話。

日常の平和に貢献していながら消耗品のように扱われてしまう一般人はたくさんいる、たとえば現在(2021/5/10)だってコロナ禍の最中に己を削っている医療従事者には、労いどころかさらなる負担しか与えられない。国が救済しないのが100%悪いけど、国民同士で褒め合って、認め合って、労い合って、想像力をはたらかせて、可能な限り言葉や行動で他人を傷つけない・喜ばせる努力を(感染対策を徹底したうえで)多くの人がしてくれたらいいのになあと思う(もう自粛とかどうでもよさげなひとたちが去年より増えているのを体感している)

できる限り自分も、周囲や他者へのポジティブな対応を心がけている。コンビニの会計で「お願いします」「ありがとうございます」をはっきり言うとか。もちろん自分も他者も常に完璧な対応なんて無理だけれど。

自分は将来的に独りで生きる可能性が今の時点では濃厚だし、少しずつでも社会全体が住み良くなり不当な扱いや心ない言動が減っていき、行政福祉が単身世帯や一人親家庭や介護の現状などを改善してくれることを希望している。

手っ取り早くトップである国が変わればと思うけど今の政権ではむずかしいだろう わたしは独りで細々と生きて死ぬ まあ死ぬのは当たり前ですよ、結局どんな生き方をしようが死ぬ、それはそれとしてそこに至る前に納得いかないことだらけで不服にまみれながら死ぬのは誰だって嫌なはず。独りでもまあまあ普通に生きていけるような見通しというか「なんとかなるでしょ」感がほしい。コロナも含め現在ではなんとかなりそうもない。


自然環境について

水を出しっぱなしで歯を磨かない、必要以上にティッシュを消費しない、電気はこまめに消す、リサイクルに協力する、ゴミのポイ捨てをしない、みたいな当然のことを守れないひとに対する憤りは、常識のあるひとなら誰しも感じると思う。自分は、高校生のころまで本当に、本当に思慮の足りない人間で、水の出しっぱなしを意識すらしていなかったし、道端のゴミなんて目に入っていなかった。自分の恥を書き出したら、きりがない。今は、ささいな風景の変化に目を配りたいと思っているし、調子がよくて近所を散歩できる日は、そうしている。

自分が思慮の足りない側の人間だったこと、今でも自分の知りえない分野・領域においては無思慮・無知であるに違いないこと、気分が荒めば一時的に他者や環境に対して攻撃的になってしまう一面もあることを、忘れずにいたい。


ジェンダーについて

考え中のこと。ミスジェンダリングについて。ミサンドリー・ミソジニーについて。カミングアウト・アウティングについて。

自分語りで恐れ入りますが、わたしは恋愛も性行為もしなくて/価値観が近しく(自由を尊重するとか)/わたし以外の他人にも優しいひと(このひとが恋愛しようが結婚しようがもちろん勝手にすればいい)とゆるふわ親友みたいな仲になりたい。できればそのひともアセクシャル寄りのひとだとうれしい(他者と交合したいタイプの性欲があるひとはちょっと面倒くさい)。頻繁に会わなくてもいいができれば最期だけ看取ってくれたら嬉しい。なんだこのハードモード、クリアできそうにない。…と、諦念を語るのは望ましくないな。でもそんな人間に出会えるかどうか。

シスジェンダーストレートのひとが自分の魂の友人となる可能性、かなり期待値は低いのだが決めてかかるのは無礼千万だよな 人類引くほど繁殖してるから(地球に嫌われてるけど)何にせよ今は人に会わないので確率はゼロですね。


結婚・出産について

結婚願望はゼロだが、友人知人から発せられる「旦那が〜」「嫁が〜」「子どもが〜」と、それに続く肯定的だったり実りのある話題を聞くと、たしかにこの人たちの人生は豊かになったのだろうし、頼れる他人が居ることへの羨望は感じる。将来的に困難があってもそのコミュニティ構成員が助けてくれる(くれないかもしれないが)最低保証みたいなものか。


家族について

※〈両親がいる当たり前の家庭〉を望んでも得られなかった方々や、家族への愛情が希望と活力の源になっている方々には、わたしの主張は「贅沢な悩みだ」「感謝を知らない親不孝だ」「人情がない」と思われるかもしれません。ご留意ください。

父親に幼い頃から受けた理不尽な扱いや暴力を、時を経て彼がまるくなったからといって、許せるものか。貧困によるピリピリ、イライラとした態度で緊張状態に晒され続けて、押し入れに閉じ込められ、熱い味噌汁を顔にかけられ、家中のもの(皿やVHSなど固いものや思い出の品までも)を大人の腕力で全力で投げつけられ、年頃になったら本人いわく成長をほめるつもりで「胸が大きくなったね」などと言われ、たまに対話を持ちかけてきたら自分の言いたいことだけ言ってわたしの意見を聞かず。

それでも「育ててもらって感謝すべき」ですか。あるいは、「その程度のこと」ですか。殺されなかっただけマシ、もっとひどい環境の人もいる、我慢が足りない?

わたしの母は幼い頃、父親(わたしの祖父)に叱られて庭の木に縛りつけられたのだと言う。ごめんなさいすみませんと叫んでようやく家の中に入れてもらえたと。その話を「今なら通報するよね」とわたしが言うと、「まあ昔の話だし」と母は言いました。

わたしの所属する生活共同体では、食事の支度は女性の仕事。男性三名(祖父、父、弟)は食卓でテレビを見ながら座って待つ。調理配膳片付けまでやるのは母とわたしだけ。「お父さんは仕事で疲れてるから」。仕事でいえば、父も母も職場は同じなので労働の質も量も変わらない。「おじいちゃんたちのご飯先に出してあげて」。タッパーの残りご飯が母とわたしの分で、炊飯器の炊き立てが祖父たちの分。なんかおかしい。母は「疲れるけどみんなのためと思ったら身体が動くんだよ!」と誇りに思っている。彼女の誇りは貶したくない。家族のため、それが母の原動力なのだろう。

もちろん、わたしは病気療養中でお世話になっている身として、贅沢を要求しないし、食事洗濯掃除など出来得る限りやる。しかし、うつ病で働いていないのは弟も同じ。けれど「あなたも手伝って」とは言えない雰囲気がある。父も居る前で自分の意見を言うのが怖い。

「家族は良いものだ」という価値観を全肯定してる人の気持ちは、分からない。わたしはわたしの合意なく産まれさせられて生きている。それを「ありがたく思え」と圧力をかけられる。生きていることがありがたいのは、産まれてしまったせいでやがて迎える「よく分からんが自分の肉体と意識が消える死というもの」がおそろしいからだろう。子に圧力や暴力を振るうほど追い詰められる貧困状態だったなら、産まなきゃよかったのに。わたしはそう思ってしまう。

さも家族が増えて家族みんなで生きていることが素晴らしいかのような言説が当たり前のように浸透している。(それが幸せという人はそのまま幸せでいてほしい、あなたの幸せが長く続きますように。)

わたしは自分の家族のことを家族と呼ばずに「生活共同体」と呼ぶ。どうしてもこの言葉(家族)に馴染めない。「家族なんだからずっと一緒に/近くに住んでいよう」とか「家族なんだから適性のない仕事でも手伝って/後を継いで当然(自営業、家族経営、農家など)」とか。もちろん、本人が出来る限りの協力するのは当たり前だと思う。でもなにか引っかかる。

なんで生活共同体に所属していることをアイデンティティに思わなくてはならないのだろう。

ただ、わたしは「所属する生活共同体(家族)のせいでこんな自分になってしまった」とは思わない。わたしと家族は関係ない。わたしの責任はわたしが負う。これからわたしが健全な精神で生きられるかどうかは、わたし次第だ。


差別・格差について

ジェンダーの項でも差別について触れますが、ここではより広範に障がい者差別や人種差別、経済格差、男女平等などについて考えます。まだ考え中です。

他人の症状や障害を「この程度なら〜」と言う一般人や医師、個人の苦しみは他者の指標で測れないことを骨の髄まで認識してほしい 何気なく場合によっては元気づけようとしての発言だったとしても。

学歴主義・学歴信仰・学歴差別をする自称高学歴者は頭が悪い。


メディアについて

久々にテレビ見たけど、その道のプロフェッショナルであるアスリートに対して報道関係者が「くん」「ちゃん」呼びはストレートに無礼だな、選手と呼んだらいいのに。「すご〜い✨筋肉触らせてください😊」もそうだけど、少なからぬ一般人に影響を与え、諸外国のメディアにも見られている報道関係者の軽率な言動が気持ち悪い、恥ずかしい。報道番組すら見れなくなりそうだ

居間にあるテレビを重石か何かで思いっきりぶっ叩いて壊す妄想が頭を離れなくなる、二日に一度くらい。テレビに対する憎悪が膨らんでバラエティ、ワイドショー、モラルのない情報番組、派手なコマーシャルを見るのが苦手じゃなく苦痛のレベルだけど、家の人はそういうのばかり大音量で観たがる

家人が「これなら観れるでしょ?」とチャンネルをブラタ◯リにしてくれるのだが、地質学や歴史などのテーマが面白いだけに、高齢男性が若い女性アシスタント(アシスタントとは?)に知識を披露して「へぇ〜そうなんですねぇ!」「知らなかったでしょ?」と言う一見和やかそうなマンスプがきつすぎる

タ◯リさん、悪いひとではないと思ってはいる。というか、ムラ社会への反発や歴史修正主義者への批判など、ご本人が多くを語らないスタンスだけれどもその滲み出る思想は好ましいものだと思う。完璧な人間など居ない、ということ。ブラタ◯リについては、マンスプレイニングの構図に仕立てている番組制作側の問題でもあると思う。


社会規範について

報道関係者の非常識を批判しながら、自分も常識がなかったりするからな…。冠婚葬祭のマナーとかぜんぜんわからない 成人してからは友人と同僚の結婚式、親類の葬式に行ったきりです

粗相をして他者の喜びや弔いの気持ちを損じてしまうならいっそ行かないほうが吉、冠婚葬祭に価値を感じない人間が行っても迷惑になるだけだろうという思いがある 「結婚を喜ばしいものと思う気持ち」を想像しながら祝福を送るのは精神的にかなりの余裕がないと無理

「花嫁が白いウェディングドレスを着るのに白いドレスで来た女がいて丸被り!」と怒ってる記事があってちょっと意味がわからない 「結婚」自体が自分のなかでToDoリストの最下位にすら入っていないほどプライオリティがないのでどうでもいいの一言(もちろん他人に言ったりはしない、なんか人類には色々と譲れないもの、執着とかがあるんだな できるだけ他人の大切なものに傷をつけたくはない、なので関わらないのが一番ということになる)でも他者が幸せそうなのは良いですね。なんで幸せなのかわかんないけど

義理を果たさないと困ったときに誰も助けてくれないよ、と内なる他者が言いますが、それは所詮その程度の他人なんだから儀式の流儀に同調できるひとだけ行ったらええんちゃうかと。


政治について

「リベラル」で検索すると「嫌い」「めんどくさい」「息苦しい」がサジェストされる。めんどくさいのは、自分に関係ない(と思い込んでいる)ものへの無関心。嫌い・息苦しいのは、本来の自由主義でなく他人に強要したり差別的・攻撃的な誤った自称リベラリストの行いがあるから。

平和主義、平和という言葉について考えている  福田恆存と三島由紀夫の著作くらい改めて読んだほうがいいかな 愛国主義とか保守派の系譜を知っておく必要がある

入管法に関しては自分の意見がまとまらない…そもそも現状を知らなすぎる 外国人は犯罪者だと言われるのは自分のルーツ関係なく、れっきとした人種差別であり悲しい(自分の民族アイデンティティや個人的な親への感情としては微妙ではある)
国として外国人を助けられる精神的・経済的余裕や価値観の土壌、つまり時間が必要というのはわたしが言うまでもないことであって、やはり安易に語れる問題ではない、考え続けたい


コミュニケーションについて

どんな話題でも「当然あなたもそうですよね!」の強要・決めつけ・抱き込みがダメ 他者を他者だと認識できていない人間の思考だ。似たような主義信条の人間同士でさえ、絶対になにかは違うはずなんだけどな。

自分の生活共同体は飲食店経営によって生計をたてていて、ベジタリアンやヴィーガンのひと、ムスリムのひとなどさまざまなひとたちが来店する。そのたびに、そのひとに合った料理を提供する。「めんどくさい」ではなくて、する。当然だ。
別に内心「分からんなあ」と感じていてもいい。自分の考え方や感覚に合わないことを無理に理解する必要はない。そのひとたちを拒絶・否定・排除・邪魔しない。それだけのことだ。

「最悪その場でググるだけでもいい、読んだり見たり知ったりした上で言及すること。」
フォローしている方がよくそう仰るので、自分も不完全ではあるが意識できている。ありがたい。知らない・分からない話題に対して無関心な反応をするのは本意ではない。知ろうとして、実際わずかでも知ることが、自分の世界を広げるし、他者と繋がるということなのだと思う。

Twitterで平和的・建設的な議論ができるわけがない 一つのツイートにぶら下がる、数百数千にも及ぶリプライ合戦はぜんぶ雑音だ

以前職場で年齢を聞かれ、(当時)27歳ですと答えたら「ああ…(ピチピチってわけでもないしどう返そう…)」というわかりやすい反応と表情をしていただけたので、今後年齢を聞かれたら「いくつに見えます?」「えぇ〜…!?…◯◯歳くらい?」「はい、それでいいです😊」で通すことにしました。


表現について

架空のキャラクターでよく「可愛い女の子だけど料理が不得手」が特徴的要素(ネタ)になるの、基本的に女性は(プロでなく家庭の)料理が得意という固定観念があるからなのか 男性キャラクターで(日常的な)料理不得手が特徴になっているのヘタリアくらいしか知らない 誰かそういう漫画でも映画でもゲームでも小説でも知っていたら教えてほしい

あと大切なことですけどキャラクターが何か苦手・不得手なことがあってもそれを笑いものにする(「そんなこともできないでやんの」みたいな)侮蔑描写は、基本的に好きでないです(後からそのキャラクターの輝く姿や成長を見て認識を改める、みたいな意味のある描写ならギリギリ分からんでもない)。でも侮蔑や侮辱がそういう展開のためのスタンダードになるのは(読者は気持ちいいかもしれないけど)わたしは嬉しくない。

架空の人物像 ワンレングスで目つき悪くてチュッパチャプスくわえてる若者、みたいなのがよく想起される。白いワンピースの少女、とか。キャラクターのステレオタイプみたいなのっていったいどの作品が起源なのかなんとなく知りたくなる 起源っていうか、変遷というか。

最近のおしゃれな複合型アート音楽(YouTubeの流行りのミュージックビデオのアニメーションなど)は、雰囲気がよく似ているけどなぜなんだろう。あの辺りのアーティストみんなが「表現としてそうしたい」のか、「そうすれば(再生数や登録者的に)いい」からなのか。批判ではないです。同じコミュニティに属する人間が似た者同士になる、ある種のエコーチェンバー現象かなと思っただけ。

自分はYOASOBIもヨルシカもReolもyamaも認知はしてる程度です。あんま詳しくない。あの辺りのアーティストで好きなのはずっと真夜中でいいのに。です。歌詞であえて核心を歌わずに核心を歌っている気がするから。歌詞があいまいなんですよね。だから「よく分からない」という意見も分かる。でも、歌詞の主人公のほとんどが十代後半〜二十代くらいの若者に感じるけど(それは多くの若いアーティストがそう)「彼」とか「彼女」とか言わないのが良いんですよ。言わないっていうかあまり意識してなさそうなところ。必ずしもシスジェンダー・シスロマンティックな恋愛でない、恋愛に限らない雰囲気や物語設定が漂っているのが自分には心地良い。ACAねさん本人がそれを意図しているかは勿論わからないです。自分の想像。

アーティスト名を検索したときに素顔を公開していないアーティストの紹介(?)記事で、「素顔が可愛い/格好いいってホント?」「恋人はいるの?」みたいなゴミみたいな項目があるんですけど(具体的にはずっと真夜中でいいのに。のACAねさんについてとか)だったらなんだというのだろう。シンプルに嫌ですね。

サバサバしてる広告、「内容はともかく画が巧い」というツイートを見て初めてまともに直視してみたんだけど、確かにすっごい画力高くて感心してしまった デフォルメ系の似顔絵師とか向いてそう


自分について・内省・愚痴

完璧を求めてはいけないわけではない、ただ、人間もその副産物(技術や思想や身体表現や創作物など)も完璧なものなどないから、結局「あらゆる指標をもってして完璧」かよりも「自分が完璧と思えるかどうか」が重要なる

お向かいの੯ੁ‧̀͡u\とてもかわいくて癒される ただかなり吠え癖があって聴覚的・関係妄想的につらい 動物に罪はないだけに悪く言いたくないんですが、この子だけじゃなく散歩中や庭内の番犬に吠えられる頻度が多くてすごくこわい 田舎だからか? 散歩はルートを変えればいいけどお向かいさんは避けようがない 動物にまで嫌われているみたいな妄想ほんとなんとかしたい

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