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mother's day and solar flare   認知症の母 薄情な息子

11th May 2024 母の日 を 翌日に控え
ニュースでは太陽フレアが伝えらてた・・

この日、僕は故郷の母を訪ねて行った
前回会ったのは、去年の夏を過ぎた頃だったと思う。
故郷と呼ぶには近すぎる 鎌倉だけれど・・
#ふるさとを語ろう

手前勝手に綴る


母のこと

鎌倉の小町通り この通りにはづっと彼女の姿があった。
未だ、鎌倉消防署が鎌倉警察署と斜迎えにあったころから、
それどころか、まだ小町通りには1階が店舗で2階に住まいを持つスタイルの個人商店が立ち並んでいる頃からだ。
小町通りにも風呂屋があり、風呂はあるのにここに通った。
風呂上がりはコーヒー牛乳だ。
比企谷幼稚園に僕が通って居た頃
住まいは、夷堂橋にほど近いところにあり、ここから、本覺寺の境内を通り、ボーリング場を抜け、駅へと続く緑と白のゼブラ模様の看板の様な信号機のある横断歩道は渡らずに右折、郵便局の前を進み、島森書店の前の信号を渡る。
眼の前には、おまんじゅうを蒸し、牛乳を売る店。ここではよく、パイゲンCを飲んだ。この前を通りぬけ、氷屋の金子さんの路地を左に折れて納言さんの前を通れば、小町通りだ。納言さん、もはや何度と無く氷を食べに行き、母はクリームあんみつを注文していた、不二家の2階で、僕はぺこちゃんサンデーを食べて、グラタンを食べた。時にはイワタでホットケーキ、母はいつでもコーヒーだった。
扉でホットドック 母はコーヒーだった。
うちの店には、祖父夫婦がおり、少なくない従業員を雇い、店を切り盛りしていた。従業員と家族とで定期的に宴席が設けられて、場所は長谷の三和楼さんか小町園、時には芸者さんがきたり、流しの方が来たり。従業員との旅行も、よく湯河原、熱海へ、伊東にいくならサンハトヤだった。 父はもっぱら若旦那の位置で店に立ちつつも、しっかり従業員さんがいたので ◎◎会議所とかの活動に何とかで忙しそうで、夜は例会、寄り合い、人に会う。休日は常にゴルフだった。
何か知らぬが、だれがみても、小さなあの店で、あれだけの従業員を雇い、それでも忙しくしていたのを覚えているのだけれど、今は同じ規模の店であるにもかかわらず、数名のアルバイトで回している。昔の忙しさは今の比ではないにしても、あの時代、こんな生業店でさえ、人が集まり店をもり立てていた。
なぜ居たのかわからないけれど、家にも秋田か岩手から出てきた住み込みのお手伝いさんまでいた。
まるで、三丁目の夕日だ。
母は、最初は店に入ることは無かったけれど、店の経営が父の代に移ると、店に出始めた。そこから、何十年にも渡り、彼女はいつも店にいる明るい女将さんであり続けた。
常識はずれの、彼女の言動は人を笑顔にさせて、昭和の時代から平成を生き抜いた。
まあ、彼女のエピソードは微笑ましいものが多く、どこかサザエさん的な人だった。
その彼女が、店に立たなくなったのは2年ほど前のことか、軽い認知症との診断だったようだ。

新しさと古さ時の調和があった昭和の鎌倉
変わらない景色でも時は流れる


母が壊れていく現実


そして、店に出ない日々の中で、病状は進急速い進行していったという。
去年の夏は、まだある程度きちんと会話が出来ていた。
それから、1年と経たないのに
きっかけは、転んだ事だという
硬膜下血腫 外科的処置が行われた際に
母の脳の寄宿はかなり進んでいることがわかり
これを期に認知症が悪化するリスクを告げられていたという

やがて、彼女の症状は急激に悪化して、家で一人にしておけない状況となったらしい。
介護認定も、一気に上がり施設に入ることになった。
それを聞いた時に、僕は
直ぐに見舞いに行くことにしたのだけれど、様々な理由で、少し待った方が良いと言われた。
身内が来ると、里心から帰りたいと暴れてしまうから、メンタルが不安定になるので今は面会しないほうが良いとか。なにより、面会が可能なのは平日と土曜日だけ、それも14:30〜16:30 差し入れは厳禁。
なぜ、そこまでとは思ったものの、こちらの忙しさもあり 見送っていた。

そして、そろそろ大丈夫

介護老人保健施設


その電話を受けて 今日 僕は母に会いに行った
母と僕にとっては、まるで縁のない場所
#湘南モノレール #湘南町屋  大船から西鎌倉に抜ける道の途中か
手前に 富士見町駅 という場所がった むしろ 湘南町屋の方がこ名前にそっているのではないかと感じるように。
この初夏の午後に富士がそこにあった。
ここは市区町村の単位で言えば鎌倉市かもしれないけれど、私の言う鎌倉ではなく、母がなぜこの様な場所にいるのか不思議だった。

介護老人保健施設とは、本来 疾病や怪我で入していた患者が直ぐに在宅では対応出来ない場合に一時的に入所する施設とあるが、母の場合もレギュレーション的には、硬膜下血腫での入院の後に、在宅では在宅では難しく一時入所という事なのだろうか。

規定の14:30 までに受付を済ませる 受付方法等も、なんとも説明はなく、面会に訪れる側が受け方法は知ってて当然的な対応。最初くらいは説明が欲しい、その対応をここで期待する術はないことは空気で理解した。
面会時間厳守 持ち込み厳禁 と面会する側には厳密な指示をだしながら、も、面会者を受け入れる側には配慮はあまり感じない。
面会票には、体温 風邪症状の有無などが記載されていて、ここに該当すると面会は出来ないと書いている。
その説明もないどころか、検温を案内する説明さえない。
受付は、こちらをほぼ無視して、慣れた面会者と世間話に興じている。
解らないことは総て、こちらから声をかけて、確認する。けれど、それも
一問一答的で、流れとして理解できない。してこちらの質問にYes or No の言葉を用意する必要がありそうだ。結果、都度 都度 都度 都度 聞かないと先に進まない。
手洗いうがいして、2階に行ってください
と言うが、手洗いうがいの場所も聞かなければわからない。
それはいいが、本人が手洗い嗽をしたのか、体温は正常化の確認もない。
実際の検温結果、体調よりも、これをやらせる案内をしましたよの、意味のない免罪符か??
2階に上がれと言っただけ、どこから上がるかの指示も見渡し階段を探し、エレベーターを見つける。
2階についても何処が入口かもわからない。
公的介護老人保健施設なんてものは、所詮何処もこんな対応なのだろうかと思う 客扱いはいらないけれど、せめて、段取り 導線 くらいは案内して欲しいだけだ。

かろうじて、たどり着くも、母の姿はわからない、多くの老人の中を見渡すとそれらしい姿があった。私が母に近づくと、「そちらから行かなで、こちらでで待ってくださねいねと、指示が。
その指示の中にある、こちらがまた曖昧

禁止 静止 制限内容の指示だけはする
少しだけだけれど、腹立たしさを感じる
僕の経験では、通常何処に行っても 最低限のインフォはある 企業でも 公の施設でも 病院でもだ なのに、本当に案内が足りなくて戸惑うのだ。

人手が足りない 本当に過酷な労働 報われない賃金
彼らを庇護する言葉は耳にする、けれど改善されないのか だから
面会者の対応までは とても とても なのか
もしかして、もはや あまりの過酷な勤務は 彼らから気配りを優しさを奪ったのか、これも、議論だけではなく具体策が必要と感じた。


モノレールに乗った
湘南町屋駅からの富士山

ようやく場所が決まる

母は誰が面会に来たのか、解らない。
様子でこちらを見ていた。
そして、弱々しい笑顔で 「お兄ちゃん」と呼ぶ
マスク越しの顔でも、僕を見つけることは出来た
少しだけ安心した けれど、それも束の間
彼女の話は、ここに入所している本人のそれとは、およそ関係の無い話で、彼女は今日も、小町通りの店で働いていた。
そこには、父も、祖父もいて、自宅では介護が必要な祖母がいた。
彼女が、何十年も続けてきた日常がそこにはあった。
時に一瞬だけ、現実をボソつと語る、ほんの数秒だけ。
でもまた、彼女が人生の殆どを過ごした世界に帰っていく。
これが、認知症というものの現実なのか

薄情過ぎる息子

そこにいる母は、母であっても それは2024年の母ではなく
施設に入所していながらも、魂も意識もここにはない
母親だった
彼女は言った、「今日はまだここに居られるの」
あれ、わかっているのか? そう思って時間はあるよ
と答えたのだけれど
この言葉、思い出せば、結果として店を継ぐことがなかった長男の僕が、東京から実家を、店を訪ねた時に母が僕に言っていた言葉だった。
それがわかったら
ここには居ない母と、この場所で面会していても
僕ら親子は今、幸せでは無い いたたまれない そんな気持ちになつたら
その場所に留まる事は出来なかった。
結局 面会は10分で終わった。
薄情過ぎる息子だと僕は自分に感じた

母の日の前日に僕は親不孝だった

認知症の人

医療の進化、平均寿命は上昇する中で
人には、生きる権利は保証されるべきと強く思うけれど
現在という現実の中で、生きることが出来ない認知症患者に対して
どの様に接すれば良いのか
身内でさえも困惑する存在に対して、介護を業務とする人々が
一人の人格として、正当に接していただくことが出来ているのかに
関しては、彼ら介護に携わる人々の身になって考えた時に
少なくとも自分は、認知症を発症して現実でない世界のことを口にし続ける成人である赤の他人に対して、何処まで優しく親身に接する事ができるのか? そう問われれば、まるで自信が無い。
そもそも、実の子である自分が、重度の認知症の親に接して感じた困惑を、赤の他人にお願いして、きちんとやっていただけることを当たり前だと思うのは、にわかに虫の良い話に思えてならない。

そして、同時に、自分が そう遠くない将来に、同様の状況になると仮定したならば、自分が今の母のように、なることを望むかという疑問だ。
人には命の尊厳があり、生きる権利は保証されるべきと強く思うのと同時に、尊厳を持って生きていくことが出来ない状況になった場合 なんらか、その屈辱から抜け出す方法は無いのかという疑問なのです。

一番恐れている言葉

「そうはいっても、御本人はもう解っていませんから 幸せなんですよ・・」

認知症患者に対することばで、以上のことを、本人意外から言われたとしよう。これこそが、認知症を発症して症状が進んだ人間に対する、尊厳の蹂躙に他ならないのではないか。
自分が辱めをう受けていることに被害者が気づかなければ、それは尊厳の蹂躙にはあたらないのだろうか。

認知症患者の尊厳と、彼らの権利と、そして訴えることが出来ない人間への接し方を、今一度議論する必要があるのではないだろうか。

#認知症 #介護老人保健施設 #親子 #鎌倉 #小町通り #母の日

最後に

認知症の人に何が起きているのか
僕は母を見ていて感じた
彼女の脳に中は、時間と空間を飛び越えていると
まるでタイムマシーンのごとく
彼女の中は、2024年の介護施設から、違う時間と空間へとジャンプしていて、ここにいる母は、言うなれば 抜け殻
僕は抜け殻と面会した
そう思えば、彼女は違う時間と空間で生きている
これが、彼女におきていることなのかもしれない

自分が彼女のこの先の日々に
何をすることが出来るのか



【この本には母のことがとても良いエピソードで書かれています】





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