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愚かでも、ありのままを愛されたいと、あえて期待したい(【We Are Who We Are】

※ネタバレを含みますのでご注意下さい。
今年一番のドラマに出会いました!
「We Are Who We Are」です。

このドラマは、誰かを閉じ込めない。
自分を自分たらしめる要素を愛することの素晴らしさが詰まっている、と深く感じました。
(冒頭から語っちゃうぞ感満載ですけど本当に語りが止まらなかったのですみません)


物語は、イタリアにあるアメリカ軍基地にNYからフレイザーという少年が引っ越してくるところから始まります。
ブランドアイテムを全身に身につけた個性的な少年フレイザーは、自分と同じトランスジェンダーの少女ケイトと出会い、心を通わせます。
フレイザーは音楽やファッション、詩など、文化的な趣味を多岐に愛していますが、本当はそんな自分を、誰か素敵な男性にまるっと愛してほしい、でもそう甘く受け入れてはもらえない、という挫折を経験しています。
やり切れない孤独の中で、架空の恋人を作り上げて自分を慰めるという、自己愛に浸りがちな一面があります。
一方ケイトは自我を押し通してトラブルを起こすよりも、当たり障りなく友好な人間関係を好むタイプです。
しかしフレイザー同様、誰かに(主に女の子に)ありのままの自分を受け入れてほしいと願っています。
他人は二人を定義したり評価しようとしますが、どの言葉で他人に定義されようとも二人にとっての正解は見つかりません。
最終的に、自分たちを何者にも定義出来ないままで良いと、ありのままの自分を受け入れようとしていきます。
トランスジェンダーだから、女の子、男の子を好きにならないといけない、ではなく、
性別なんて関係なく、自分の中に芽生えた愛情こそが答えなのです。
他人と心を通わせたいと願った時に、ありのままの自分を受け入れてもらえるのではないかと期待することは未熟さかもしれませんが、美しい前向きさとも言えると思えます
フレイザーの恋愛対象は男性だけど、ケイトを愛している。
ケイトの恋愛対象は女性だけど、フレイザーを愛している。
(あっネタバレしちゃった)
お互い不完全で未熟で、簡単に人を傷つける自分勝手な若者だけど、それでも愛している。
自分を構成する要素がそれと矛盾していたとて、その愛情こそが答えなのだ、その愛情こそが自分そのもののだ、ということを強烈に定義した作品だと感じました。



最終話が特に胸熱で爆泣きしてしまったのでちょっと語らせて下さい。
(まだ語るんかい)
色々あって2人が離れ離れになる前日、親に内緒でライブを観に行くのですが、電車の中でTime Will Tellという歌をイヤホン半分こして歌ったり、道中めちゃくちゃ楽しそうなんです。
(いいじゃないか。もっと仲良くしたまえもうすぐお別れなんだから…。)
しかし、旅の途中で2人はある少年に出会い、フレイザーは彼に夢中になってしまいます。
(フレイザー最低です)
いつもケイトと話せないファッションや音楽の話で盛り上がり、完全に置いてきぼりのケイトは、「Time Will Tellが一番良い曲だと思うよ」(ケイトは無意識にフレイザーを取り戻したいんです泣いています)と話しかけるも、フレイザーの耳に届かずそのまま会場入りします。
(フレイザー最低です)
ライブハウスで最前列ではしゃぐフレイザーに置いて行かれたケイトは、同じトランスジェンダーの女の子といい雰囲気になり、キスを交わします。
でもその時、「私が本当にキスしたかったのは誰でもいい女の子じゃなくて、もしかして…」と気付くわけです。
(びゃーーーーー)
そしてフレイザーが彼ではなく自分を選んで来てくれることを期待しながら、一方で自分の苦しい片想いへの対処法が分からず、怒った様子でライブ会場から飛び出します。
そんなケイトの違和感に気づきながらも、仲良くなった彼と夜の街でいい感じになるフレイザー。
(フレイザー最低です)
しかし、「この先に世界で一番美しい場所があるんだ、準備はいいか?」と問われた瞬間、フレイザーも気づきます。
「ここまでだ」と。「この先へ一緒に行きたいのは彼ではない」と。
そうしてケイトの元へ走り出すフレイザーですが、仲良くなった彼が次の瞬間ニコッと笑って消える、という描写があるんですよね。
もしかしたら彼も、フレイザーが作り出した架空の友達だったのか、途中からフレイザーの妄想の世界だったのかもしれません。
最後、フレイザーはケイトを街へと引き戻し、世界で一番美しい場所に連れて行って、そこでキスを交わすのです。
(はんぎゃーーーーー爆泣)
そのキスには、
フレイザーが自己愛を手放し、その愛情をケイトに向けるという勇敢さへの一歩を踏み出した
ケイトが他人へ愛情を向けること、そして自分を何にも当てはめないという勇敢さへの一歩を踏み出した
そして、二人が、自分の中に芽生えた愛情を認めたことで、自分自身を認めることが出来た
という意味が込められていたと個人的に思います。

フレイザーにとって、ケイトを愛するということが自分を自分たらしめる要素であり、ケイトにとっても同じことなのです。
ありのままを愛したい、愛されたいと思うのは、ありのままでは愛してもらえない事を知らない人だけが出来る事だと思います。
でも、図々しくも、私もありのままを愛したいし、愛されたい、と願ってしまうような作品でした。
叶わぬ願いと思いながら、どこかでずっと期待していたい。
まずは、ありのままの自分をありのままの自分が愛せるようになるところからですよね。


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(あの、やってること完全に回し者ですが回し者ではありませんのでご安心ください!)

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