うつ病のおばあちゃん

精神科で看護師をして、2〜3年目の頃。

患者担当を10人くらいは経験して、統合失調症、躁、うつ、依存症関連、ある程度ひと通りの病気を知って、自分で考えて行動できるようになった頃。

うつのおばあちゃんを担当した。小さくて背が曲がってておとなしい白髪まじりのおばあちゃん。不眠、意欲低下、希死念慮、とにかく体がえらくって一日中ベッドに横になったままのおばあちゃん。

大して治療効果も出ないまま、ベッドに横になったままの入院生活を2〜3ヶ月続けた頃。定期的に来る娘と面会をしたものの、なんだか冷たくあしらわれたらしいおばあちゃん。

元々家族への依存が強いもんだから、娘も結構疲弊してて、喧嘩腰の娘を見ることも珍しくなかった。その日も治療効果のないおばあちゃんに対して、依存が強くわがままを言うおばあちゃんに対して、「そんなことを言うんだったらもう面会に来ない」と、お怒りの言葉を発していたようだった。

なんとなく寂しげに娘を見送ったおばあちゃんは、また横になりに部屋に戻って行った。その30分後、私は部屋でタオルを5〜6個結んでロープ状にし、柵と首に巻きつけて倒れているおばあちゃんを発見する。


結果だけ言うとおばあちゃんは死ななかった。

発見時は顔面蒼白で鼻血を出していたおばあちゃんは、正直助かるとは思わなかった。幸い、発見が早かったおかげで何とか助かったらしい。

数日後、体調が回復してから初めて対面した時のおばあちゃんは、泣きながら私に礼を言った。

医療者である以上、感情優位になってはいけない、を何となくモットーにしている私。しかし、担当になると、どうしても他の患者よりも強い情が湧いてしまう。毎年1回は顔を合わせる親戚くらいの感覚にはなってると思う。礼を言うおばあちゃんに対して、私も泣きそうになったのをただ堪えたのを憶えている。

高齢のアルコール依存症で、何度も泥酔しては体調を崩して死にかけるおじいちゃんがいたが、「もう何年も生きられないんだから、酒を我慢して生きたくない」「酒を呑みながら死にたい」と言っていたのが印象的だった。

家族が毎回連れてきていたため、強制入院となって治療してはアルコールを辞めさせるための勉強などを受けさせていたが、正直人生の生き方なんて好きにさせてやれば良いのにと思っていた。「酒を呑んで死にたい」気持ちを尊重できないものかと。(医療に掛かる以上、それは難しいことなんだが。)

おばあちゃんに関しても、日頃から「死んでしまいたい」という言葉は口ぐせのように聞かれていた。アルコールのおじいちゃんと同じように、残りの人生を自ら切り上げる選択は、本人が決めれば良いんじゃないかと思っていた。

でも首を括った時、おばあちゃんは死ねなかったのに、泣いて礼を言った。毎日あんなに望んでいたのに。理由は聞かなかったので分からないが、本当は死にたくなかったのかもしれないし、助けてもらえたことが嬉しかったのかもしれない。

うつ病の人が自殺をするっていうことは、癌の治療をせずに死ぬとか、高血圧を放置して脳内出血で死ぬとか、身体の病気で死ぬことと同義で考えて良いと思っていた。その反面で、うつ病とは関係なくて死にたい欲求が高い人は、もう止めてあげなくて良いんじゃないの、という思いもあった。

自殺願望がある人or自殺した人=うつ病、っていうのは何となく違うんだろうなと思いつつ、おばあちゃんのような例を考えると、目の前の一つの山が越えられなくて突発的に死を選択してしまう人も多くいるんだと思う。手を差し伸べれば救えた人、救って欲しかった人が。

だからやっぱり医療者である以上、そうでなくても目の前で死を選択しようとする人は死なせてはいけないんだと、その時感じたのを何故か今思い出した。

木村花さんの件や、コロナ禍で自殺した人のニュースを続けて見たからかな。

精神科ナースとして、振り返って今思うのは、首を括ったおばあちゃんを早期に見つけたのは、第6感的なものだったと思う。

普段から「もう死にたい」が口癖になっていて、家族にあしらわれる姿は珍しくなかったおばあちゃん。今の私が直面していたら、発見は遅れてたんじゃないかと思う。

意識高い系になりたい系の私は今。リスクアセスメントとか、分析とか機械的に判断して行動する中堅ナースになった今。むしろ、感覚的なものを排除して、理論的に行動できるように目指してしまっている。でも本来の精神科ナースなら、アーティストとか職人に近いような、そういった第6感を磨いていく方が大事なのかもしれない。


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