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『いじめられる方が悪い』なんてことは絶対にない

社会問題を議論する場面で、必ずと言って良いほど出現する「〇〇される方が悪い」という主張。一見すると説得力があるように思われるこの主張だが、実際は根本から間違っていることがほとんどだ。その間違いを指摘し、社会問題についてより正確な議論ができるようになるために、この主張を論破する術を手に入れよう。

いじめられる方にも問題がある?

大きな社会問題の一つに、"いじめ"というものがある。この問題は主に学生時代を想起させるだろうが、実際は成人、大人になってからも無関係の問題ではない。むしろ、大人のいじめはより陰湿に、より悪質になっていたりもするのだ。

さて、そんないじめだが、それについて語った時、このように言う人がいた。

「いじめる方は確かに悪いが、イジめられる側にも問題がある。」

その人が言うには、いじめられていた側の人にもいじめられる要因があったそうだ。その時は例として、喋り方などが"気持ち悪い"だったり、"無口"であったり、"調子に乗っている"というものが挙げられた。

しかし、よくよく考えてみよう。そう言った要因は本当にいじめられる要因なのか

いじめられる"要因"は"いじめられる要因"ではない

人というものは、誰一人として同じ存在ではない。

大前提として、このことを知っておく必要がある。同じ花を見て、その花を美しいとかんじるか、醜いと感じるかは人によって違う。自分の育ってきた環境や、その人自身の感性などに大きく影響される。

とすると、絶対的な価値観などというものは、存在しないことになる。

先程のいじめの話を考えてみる。"いじめられる要因"というものに、"気持ち悪い・無口・調子に乗っている"というものが挙げられた。しかし、よくよく考えてみると、これらは加害者側が、言い方は悪いが、勝手に感じた印象である。"気持ち悪い"ということは、気持ち悪いとされる人が持っている特徴ではなく、気持ち悪いと思う人が持っているある種の偏見である。

その気持ち悪いを想起させた、いじめられる側の特徴があったとする。しかし、それは元来、気持ち悪い特徴ではない。ただの個性である。人の見た目や性格について、絶対的な価値観など存在しないのだから、たとえそれの印象を大多数の人間が同じように思おうと、その個性が本当の意味で気持ち悪いことは絶対にない

誰か、偏見を持つ人によっていじめられる"要因"はあったとしても、"いじめられる要因"なんてものは存在しないのだ。


〇〇する方が絶対に悪いという前提を無視してはならない

大きな社会問題、"痴漢"というものにも同じことが言える。

痴漢される側がしているファッションは、あくまでもただのファッションであり、"痴漢したくなるファッション"ではない。痴漢したくなっているのはあくまでも加害者である。

こういった議論をする時、「その行為=悪」であることを忘れてはいけない。"いじめという行為"はそれ自体として悪であるし、"痴漢という行為"もそれ自体として絶対的な悪である。

この絶対的な悪の前において、被害者側にも悪を見出そうとする姿勢は、ある種の逃避だ。大き過ぎるが故に、その悪を遠ざけようとする意思だ。しかし、逃げてしまっては問題を解決することは出来ない。人間同士の不必要な対立は避け、絶対的な悪と対立しよう。


論破しよう、「〇〇」される方が悪い

・まず、"〇〇される要因"というものは存在しない。その要因はあくまでも個性の一つである。その個性に形容詞をつけるのは加害者側の主観。

「〇〇という行為=悪」という揺らがない前提を提示。議論すべきはその悪と、解決策について。

社会問題について語ることは、必要なことである。その際、有意義で正確な議論が出来るよう、このような意識を持っておくべきだと思われる。重要なのは、「〇〇される方が悪い」だったり、「〇〇したからあいつは人間として終わっている」などという中傷に至らずに、問題それ自体を積極的に語る姿勢であるということ

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