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実録エッセー『貧しいと思しき子どもたち』 カメロー万歳 第92回 白洲太郎 月刊ピンドラーマ2024年6月号

ブラジルは貧富の差が激しい国だという話をよく聞く。なるほど、たしかにそうかもしれないが、同じようなことは他のどの国にだって当てはまるんじゃないかと思う。裕福な人と貧乏人の差は一体どこからくるのか? 先進国でいえば、やはり『学歴』ということになるのかもしれない。頑張って勉強をし、いい学校に入り、優良とされる企業に就職する。あるいは難関試験に合格することにより、高収入の道を切り開く。ありきたりではあるが、それが一般的に『まとも』と考えられている人生ロードであろう。

ボクの住んでいるブラジルの小さな田舎町ですら、今どきの若者は大学に行きたがっていると聞く。昔の日本がそうであったように(現在もそうであるが)、ブラジルも学歴偏重の傾向になっていくのだろうか? 度々、教育問題が取り沙汰されるこの国では、それも決して悪い風潮ではないと思うのだが、あまりに学歴ばかりがクローズアップされると、やはり落ちこぼれる者が出てくるのであり、結局、勉強のできない者は低収入に甘んじなければならぬということになる。勉強はもちろん大事だが、それ以前の『生きる姿勢』というヤツを身に付けることが何よりも大切なことだとボクは思っている。

その『生きる姿勢』をどのように身に付けるのか? もちろんそれも教育問題の一部なのであるが、発展途上国にありがちな『貧しいと思しき子どもたち』を例に、ボクなりの考え方を述べさせていただきたい。

ボクはブラジルの北東部にある小さな田舎町で、露天商として生活の糧を得ている。毎週、地元の青空市場に出店し、安物アクセサリーなどを販売しているのだが、ボクの活動している地域にも、いわゆる『貧しいと思しき子どもたち』は存在している。なぜ彼らのことを『貧しい』と思うのか? 誤解を恐れずに言えば、それはほとんど『見た目だけ』の判断だ。ボロぞうきんのような服を身にまとい、石畳の固い道を素足で歩く垢だらけの子どもたち。そんな姿を目撃すれば、誰も彼らのことを『ええとこの坊っちゃん』とは思わないだろう。

そのような子どもたちが、往来でおねだりをしている場面に出くわせば、その時点で彼らのイメージは決定的となる。皆、口には出さぬが、心の中ではこう嘆いていることだろう。

(なんと哀れな…神のお慈悲を…)

というわけで、『貧しいと思しき子どもたち』は比較的簡単に大人たちからの施しを受け取ることができる。パステウの屋台でおねだりをすれば腹を満たせるし、サンダル屋の前を素足で歩いていれば、店主、もしくは通りすがりの慈悲深いクリスチャンにビーサンを買ってもらえたりするのだ。さすがはキリスト教の国、ブラジルである。

貧しき子どもに施しを与える大人たち。字面だけを追えば美談である。しかしそれが本当に正しい行いなのかどうか、ボクには甚だ疑問だ。もちろん餓死寸前の者に手を差し伸べるなと言っているわけではない。ここで言及したいのは、生死に関わる部分を除く、『過剰な施し』についてである。なぜなら、施しを受けるだけの人間には『自分自身の力で成長を遂げる』という要素が何も身につかないからだ。

ボクの身近にいる『貧しいと思しき子どもたち』は、毎週、ボサボサの髪にボロボロの服、そして素足という『お決まりスタイル』で青空市場に現れる。彼らは先週の市場でこぞっておニューのサンダルをGETしていたはずだが、それでもやっぱり素足で現れるのだ。これが『営業スタイル』でないのなら、モノを大切にするという習慣が皆無なのだろう。なぜなら、そのサンダルは『タダで』『簡単に』手に入れたモノだからである。いくら慈悲深い大人が何足ものサンダルを買い与えてやっても、彼らに『感謝の心』は芽生えない。それはやはり、『タダで』『簡単に』手に入れたモノだからだ。

その様子を十数年以上観察し続けてきたボクであるから、『貧しいと思しき子どもたち』がしらす商店にやってきても、『タダで』モノを与えるようなことは絶対にしない。その『教育方針』は徹底しているので、彼らが我々の屋台に現れるときは、必ず、小銭やクシャクシャの紙幣を握りしめてやってくるのである。

もちろんボクだって鬼ではない。彼らがもってくる小銭などたかが知れているので、定価などあってないようなものである。例えばこの前は、10レアル(約300円)で販売しているネックレスを2レアル(約60円)で譲った。原価を考えれば儲けはゼロどころかマイナスである。だが、曲がりなりにも彼らはお金をもってやってきた。その心意気が嬉しかったのである。

ブラジルの田舎町では彼らと似たような年代の子どもたちが親の屋台を手伝ったり、市場で荷物運びなどをして小銭を稼いでいる。

日本のお母さん方がそれを聞いたら、
『子どもは勉強だけしてればいいの!』
などと怒り狂うかもしれないが、いやいやちょっと待ってほしい。『働いて金を稼ぐ』という経験を小さいうちにすることは、
【百利あって一害なし】
だとボクは思うのだ。もちろん勉強は大事だし、朝から晩まで子どもを働かせろといっているワケではない。けれど、『働いて金を稼ぐ』というマインドは、その人の『生きる姿勢』につながっていく。たとえ勉強ができなくても、働く意志さえあれば人生はどうにでもなるのである。

先日、しらす商店に現れた20代と思しき酔っ払いはウツロな目をして、1個3レアル(約90円)のプウセイラ(ミサンガ)を恵んでくれと懇願してきた。酩酊している以外は、五体満足に見える彼の願いを、ボクは丁重に断った。彼の『生きる姿勢』が気に食わなかったからである。

偉そうなことを言える身分ではないが、ボクは楽して金を稼ごうと思ったことは一度もない。三流大学を卒業、優良企業に勤めているわけでもなく、運転免許以外の資格ももってはいないが、けっこう楽しく生きている。そしてはっきりと『自分は幸せである』と、胸を張ることができる。

『貧しいと思しき少年たち』よ。大志は抱かずとも、正しく『生きる姿勢』を身につけよ。少なくとも、あの酔っ払いのようにはなるなよ。

などと、やっぱり偉そうな発言になってしまったが、いち露天商の戯言として聞き流してもらえれば幸いである。

それではまた再来月!!


白洲太郎(しらすたろう)
2009年から海外放浪スタート。
約50か国を放浪後、2011年、貯金が尽きたのでブラジルにて路上企業。
以後、カメローとしてブラジル中を行商して周っている。
yutanky@gmail.com
Instagram: taro_shirasu_brasil
YouTube: しらすたろう
Twitter: https://twitter.com/tarou_shirasu

月刊ピンドラーマ2024年6月号表紙

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