「パラグアイ記者交換研修」 伯国邦字紙四方山話 第7回 松本浩治 月刊ピンドラーマ2024年11月号
1995年の2月か3月頃、日伯毎日新聞の先輩記者の企画により、ブラジルの隣国パラグアイの邦字紙『日系ジャーナル』で1か月間、記者として交換研修を行ったことがある。
94年の12月頃、当時の開発青年制度(現・JICA海外協力隊)を通じて日系ジャーナルに数年勤めていた30代の男性が先にブラジルの日伯毎日新聞で1か月間の記者研修を実施。その翌年に今度は記者(松本)がパラグアイの首都アスンシオンに派遣されることになった。
当時の日系ジャーナルは高倉さんという方が社長で、旅行社も経営するなど地元でも顔役の一人だった。アスンシオンでの宿泊から研修先の日系ジャーナルでの仕事など、すべての面でお世話になった。
日系ジャーナルは2週間に1回発行するタブロイド版だったが、福岡さんという当時40代くらいの日本人編集長がかなりの「やり手」で、地元の日系社会だけでなく、パラグアイ政府関係者にも強力なコネがあった。そのため、地元の新聞に掲載されたニュースの「ウラ取り」取材で、流暢なスペイン語とグァラニー語(パラグアイ先住民の言語)で政府関係者と話をし、地元紙にも書かれていない独自の内容を記事にして日系ジャーナルに掲載していたのには驚いた。
初めてパラグアイに行った記者にとっては見るもの聞くものすべてが新鮮で、高倉さんや福岡さんの紹介で地元日系社会の名士に会ったり、各種イベント等を取材。ブラジルでは記事をほぼ毎日書いていたので、月2回発行の日系ジャーナルの取材は時間的にも余裕があり、研修生という「遊軍記者」の立場で気分的にも楽だった。
中でも最も印象に残っている取材は、JICA国際協力事業団(現・国際協力機構)の直轄移住地として84年から開設された「ピラレタ移住地」だった。入植当時、為替レートの大幅変動による土地代の高騰、日本などへの出稼ぎによる人離れ、霜害などの悪条件が重なり、「失敗移住地」と揶揄された。記者が同地を訪問した95年当時でもわずかに4家族のみと入植者が極端に少なく、JICAとしても頭の痛い問題だったようだ。
そうした中、社長の高倉さんから「我々が下手に(ピラレタ移住地のことを)取材すると、地元の人間関係などでややこしいから、ブラジルから来たアンタが現状を取材してくれんか」と頼まれ、研修でお世話になっている手前、嫌とは言えなかった。まずは同移住地に住む4家族の家長たちから証言を取り、最後にJICAアスンシオン事務所の担当者に話を聞きに行くと、露骨に嫌な顔をされた。しかし、こちらはブラジルの「日伯毎日新聞」記者の肩書きで取材に行ったので、JICAも平然と断ることができない。渋々と言った表情で取材に応えてくれたのを覚えている。そのピラレタ移住地も後年は入植者も増えて以前のような問題もなくなったと人づてに聞いたが、今はどうなっているんでしょうかね。
(つづく)
月刊ピンドラーマ2024年11月号表紙
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