見出し画像

【感情紀行記】寂しさと期待と

 寂しさというものにはわりかし耐性がある方であった。もちろん、人並みには寂しいと感じることはあったものの、それは、一人でいるということを持って発生していた様に感じる。

 大学も終わり、春休みへと突入した。しかし、付き合っている相手は、実習という大変に気を病むよな大変な期間へと突入している。事前に、連絡もあまり取れないし、会うこともできないだろうという話をされていたために、旅行を入れていた。しかし、いざ実習が始まってみると、お互いに会えないという事実に耐えきれず、会う予定を立て、遊んだ。それほどには孤独に耐性がなくなり、お互いに贅沢を言うようになってしまった。そんな中、長い旅行が始まった。旅行の最中、各地を回る中で、準備期間として東京へと戻ってくる日がやってきた。そんな時、どうしてもお互いに会いたいと言う話になり、約2時間ほどの短い時間のために、到着地の友人に無理を言って時間を作り、会うことになった。

 社会性というものはなかなか難しい言葉で、何か簡単に形容することはできないが、いわば、社会の平均、中庸の様なものなのではないかと思う。それは、社会という限りなく多種多様な人々によって構成されるような人たちが生きやすく、生活しやすくするために編み出した暗黙のルールの様なもので、その規範にのって人々は生活している。今回のことは、社会的に考えれば良くないことであろう。自分のやりたいこと、自己都合的な事象によって他の人を振り回すようなことである。恋は盲目などというが、それを正面から批判してきた自分にとっては恥じるような行為であるが、今の自分なら、それも致し方なし、と思ってしまう。

 本当に恋というものは盲目で恐ろしいものであると感じる。しかし、今の時点で行えることで、今の感情を優先するという体験もしてみた方が良いのではないだろうか、など色々な言い訳が思いつく。とにかく、社会的な自分を喪失してしまった気分である。

 話は戻して、そんなことを考えながら会った二人であるが、会えることが日常、会えないことを非日常だと考える様になってしまった。この幸せな時間を噛み締める必要があると再確認した。新幹線の改札に向かった時、二人でいたことから、そうでなくなるということによる寂しさが心を覆った。留学赴く時に、家族に一年の別れを告げた時以来のような気がする。高速で過ぎ去る日常からの脱却であったはずの新幹線は、二人を高速で引き離す時間になってしまった。しかし、これから向かう先には楽しいことも、楽しい友人がいる。まずは、そのことを全力で楽しむことが重要である。楽しい街が近づいてきた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?